秋季大会個人発表要旨
※【8/29追記】要旨情報に誤りがございましたので、正しいものに修正いたしました。
夫を模倣する、文壇を侮蔑する――『台湾愛国婦人』掲載・国木田治子のテクスト戦略
下岡友加
国木田治子に関する先行研究は極めて少ない。そのなかで継続的な研究を行ってきた中島礼子が指摘するように、「治子の文学活動については独歩の死後、未亡人の仕事の視点から見られ、語られることが常であった」(『国木田独歩と周辺』おうふう、二〇一九・七)。飯田祐子「文学場における女性作家」(『アジア・ジェンダー文化学研究』第4号、二〇二〇・六)によれば、日露戦後は女性作家が注目された「第二のピーク」にあたるが、当該期間に執筆を行った治子の名はそこにはあがっていない。しかし、長く稀覯本であった『台湾愛国婦人』(一九〇八・一〇~一九一六・三)を探索し、それらを通観した上田正行は「国木田治子がおしなべて力作揃いであったのは意外であった」(『『台湾愛国婦人』の研究』國學院大學、二〇一四・二)と指摘した。〈外地〉発刊の同誌掲載テクストからは、治子の創作のバリエーションと変化を確認することができる。その内容は主に次の三種である。第一に先行テクストへの依存や模倣が顕著なものがある。「蟹」(一九一〇・一)、「平和」(一九一二・一)のように、夫・独歩「武蔵野」の一節を引用したもの、或いは「樋口一葉の「十三夜」を想起させる小説」(中島礼子)としての「町娘」(一九一二・五)、同じく一葉「たけくらべ」を連想させる「撫子」(一九一二・九)のようなテクストである。第二に「約束」(一九一二・一二)、「戯曲 雨の夜」(一九一三・二)のように、最終的に同時代の良妻賢母思想の範疇へと収束するものの、男性や文壇への侮蔑の言を台詞のかたちで直接的に織り込んだテクストがある。さらに、第三として「操」(一九一四・八)、「鈴子」(一九一五・一)のように、不幸な状況下で働く女性(少女)像を肯定的に描いたテクストがある。本発表は右のように深化していく治子の方法を具体的に明らかにすることで、夫の影に隠されていた治子の文学の再評価を図るものである。
集団としての〈子ども作者〉――『赤い鳥』における子どもと大人の共同制作
スティーブン・チェ
近代日本の雑誌文化において、投稿者としての年少者の存在は無視できない。一八七七年に創刊された『穎才新誌』は、主に小中学校の生徒の投稿で構成されており、一八八八年に創刊された『少年園』には「芳園」と名づけられた少年向け投稿欄が設けられていた。その後も『少女界』(一九〇二年創刊)、『日本少年』(一九〇六年創刊)、『少年倶楽部』(一九一四年創刊)などと、少年少女向けの投稿欄は多く見られる。明治後期からは、少年と少女が雑誌空間の中で明確に区別される傾向が強くなるが、一九一八年に鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』の文学的傾向を持った投稿欄を皮切りに、大正期・昭和初期にかけて、少年少女を区別しない〈子ども〉という書き手が姿を現した。『赤い鳥』が用いた「綴方」という名称のもと、プロの作者や編集者としての〈大人〉とは別の、主に小学生で構成された〈子ども〉を書き手とする一ジャンルが成立したのである。
『赤い鳥』への綴方の投稿は一月に千編から二千編程度で、朝鮮、台湾、満州を含む多くの地域から送られて来た。その内容は子どもたちが日常的に体験する出来事や、見聞きした物事に限定されており、帝国日本各地に住む子どもたちの生活記録であったといえる。川端康成などの作家にその文学的な意義を認められ、量的にも質的にも当時の文学場で重要な位置を占めていた「綴方」であるが、その書き手たちの作者としての性質や意義は、ほとんど考察されてこなかった。綴方は教師による指導・添削を受け、選者三重吉の持つ水準に合わせて書かれるものであるため、書き手一人ひとりを研究対象として価値を持つ作者と見立てることは難しい。しかし、この共同的な制作過程にこそ、一つの特殊な作者像を見出せるのではなかろうか。本発表では、大人たちの基準に従い子どもたちがテクストを制作するという共同制作に着目し、綴方における〈子ども作者〉の存在を、個人ではなく、子どもと大人を抱合した集団的作者として考察する。
前衛短歌における「帝国」の表象
瀬口真司
前衛短歌と呼ばれる表現形式/作家集団は、戦争プロパガンダに関与した先行世代歌人と、それを批判した「第二芸術論」に端を発する短詩型否定論の両者を同時に乗り越えようとして1950年代に登場し、1960年代に運動化した。その新規性は、句跨りの多用による短歌定型を相対化と韻律の複層化、虚構の作中主体を作り上げる主題制作など、技法面から説明されると同時に、中心人物として位置付けられている塚本邦雄・岡井隆が個性的な隠喩を用いて天皇制や帝国主義を諷刺し、戦争と戦後日本を批判してきたことからも特徴づけられる。
詩型の歴史性と同時代性を強く意識し、アピールした彼らにとって、短歌と天皇制や植民地の関連は外しようのない大きな問題だったはずだが、それがどのように表象されたのかという問題については個々の短歌の隠喩の読解に蓄積があるのみで、その系譜や類型・協働性については未だ総合的に論じられていない。人物史や技法の発展史として語られがちな歌壇史において「旧植民地」や「天皇」が前衛歌人にどのように認識され、作品化されてきたのかということについての総合的な研究は手薄であるといってよい。本発表はポストコロニアリズムの視座から、そうした、いわゆる前衛歌人の「帝国」にまつわる認識の様相を明らかにしつつ、表象された「帝国」の読解を試みる。その際、寺山修司を取り上げることを目的のひとつとする。具体的には『空には本』における「祖国」という詩句をめぐって蓄積してきた解釈の歴史に参入しつつ、ここに表象されている「祖国」と、塚本や岡井らの短歌における日本表象・旧植民地表象、また天皇の表象の関わりについて検討し、その影響関係や協働性について考察する。
〈戦地再訪〉と記憶の語り――古山高麗雄『兵隊蟻が歩いた』論
小島秋良
古山高麗雄は1975年にフィリピン、シンガポール、マレーシア、1976年にタイ、ビルマとかつて自身が兵隊として訪れた土地を再訪する。帰国後、「一等兵の戦地再訪」(『諸君!』(1975.9~1977.2)としてその経験は作品化された。その後単行本化の際『兵隊蟻が歩いた』(文芸春秋、1977)にタイトルが変更されている。
本戦地再訪記は提起するテーマの広さから「二度の短い旅行から生まれた雑感記録、といった水準をこえている」(吉田満「書いても書いても書いても……」1977)、また「知性と感性で書いた戦地再訪記」(半藤一利「兵隊蟻が歩いた」1985)として高く評価された。しかし、本作品は以上のような簡単な作品評価にとどまっており、作品研究は行われていない。
そのため本発表では『兵隊蟻が歩いた』のテクスト分析から、兵隊であった頃の記憶と32年後作家として再訪した経験を重ねて描く戦争の語りの特徴を明らかにし、戦争を振り返る際、古山の再訪経験が読み手に与える意義を考察する。本発表では、まず古山の再訪の在り方について整理する。「大名旅行」と称された本再訪と同時代の〈戦地再訪〉との差異を踏まえた上で、次に本作品の再訪者「私」の語りに着目する。特に本発表では、「私」が一方的に望む戦時中交流のあった女性との再会に焦点を当て、再訪により生じる現地の人々との交流を捉え直す。最後に、「私」に同行する編集部の「T君」「K君」とのやり取りに着目する。彼らは2,30代の「青年」であり、〈戦地再訪〉に臨む「私」との心構えの違いを意識する語りがしばしば生じる。このようなやり取りが世代を超える語りの試みとして作品内でどのように機能したのかを考察する。
以上から遺骨収集や慰霊巡拝などの〈戦地再訪〉が一般人の間で活発化し始める1970年代において、多くの読み手が想定される作家の立場で自身の経験を言語化し残していった意義を明らかにする。
二十世紀中国の視座から三島由紀夫を読む――作品の受容と新たな解読
趙子璇
本発表は、中国における三島由紀夫の受容という観点から、三島の作品解釈に新しい光を当てようとする試みである。共産主義国家中国と「右翼的」と称されることもある作家三島の組み合わせは奇妙にみえるが、文革期の中国において、もっとも多く中国語に訳された日本の作家は三島であったことが知られており、「第一次三島ブーム」と呼ばれている。中国共産党内部における「批判用」の翻訳という限定されたものであったが(江青の指示ともいわれている)、この第一次三島ブームが、一九八○~九○年代における中国の「第二次三島ブーム」を準備した。例えば、多数の三島作品を翻訳し、第二次三島ブームにおいて中心的な役割をになった翻訳家の唐月梅は、夫が閲覧を許されていた中国共産党批判用内部資料の三島を盗み読むことによって、三島の作品に近づいた。一九九○年代に入ると全十一冊の「三島由紀夫文学シリーズ」と全十冊の「三島由紀夫作品集」が翻訳出版され、学術誌の『世界文学』と『外国文学』も三島由紀夫の特集号を組むなど、中国における三島の受容は活況を呈したが、一九九五年に武漢で行われる予定の「三島由紀夫国際シンポジウム」は、突然、開催当日に中止となった。
発表者は、これらの経緯について研究を重ねてきたが(『表現文化研究』第一八号、一九号、新潟大学現代社会文化研究科)、二○二三年五月、第二次三島ブームの生き残りであり、唐月梅の弟子でもあった許金龍氏にインタビューすることができた。そこで得た新しい知識をまじえて、二十世紀後半の中国における三島の受容についてまとめる。本発表では、さらに、中国における三島の独特な受容が、三島の作品解釈に新たな光を当てる可能性についても論じる。中国における三島ブームを牽引したのが唐月梅という女性研究者であったことは、三島解釈におけるジェンダーという問題も示唆しているように思われる。
残された人々の物語――「帰国事業」と在日朝鮮人文学
康潤伊
「帰国事業」とは、一九五九年末から一九八四年にかけて行われ、在日朝鮮人とその配偶者ら約九万三〇〇〇人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国に永住帰国した出来事である。日朝両国の赤十字社間の合意や協定に基づいた事業だが、その背景には日朝両政府はもちろんのこと、冷戦下における東アジア各国の思惑が絡み合っていたことがわかっている(テッサ・モーリス=スズキ著、田代泰子訳『北朝鮮へのエクソダス』朝日文庫、二〇一一)。他にも、実務を担った在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の役割や日本の左派系団体・メディアによるキャンペーン、当事者たちの内発的動機など、目配りするべき要因は多い。「地上の楽園」を夢見た人々が直面したのは耐え難い苦難であった。そうした人々の記録と記憶を残そうとする活動も継続的に行われている。
本発表は、近年大きく進展している「帰国事業」研究を参照しながら、在日朝鮮人文学における「帰国事業」表象を考察するものである。在日朝鮮人と「帰国事業」に関する表現者といえば映画監督のヤン ヨンヒが挙がるだろうが、在日朝鮮人文学においても「帰国事業」は頻出する。それらの特徴をさしあたりまとめるならば、(見)送った側・残された側の、サバイバーズ・ギルトにも近しい悔恨と痛みである。本発表ではまずこうした特徴を複数のテクストから明らかにする。次に、残された側の物語として深沢夏衣「パルチャ打鈴」(『群像』一九九八・九)と、その続編「ぱらんせ」(『地に舟をこげ』三号、二〇〇八・一一)を扱う。作られた記憶や記憶の欠落、残された者へのケアといった点の分析を通して、在日朝鮮人文学における「帰国事業」表象の一端を示したい。
「共食」神話の崩壊――高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」論――
松本海
文化人類学者の石毛直道は「人間は共食をする動物である」と定義しているが、古くから「共食」は儀礼や宗教で重要な意味を持ち、日常生活においても味覚の共有や食物の分配を通して「家族」や「共同体」などの社会内における集団の結びつきを強くし、文化を形成する一端を担ってきた。戦後の日本において「孤食」や「個食」が社会問題として取りざたされた際には、「共食」の重要性を主張する言説が広まっていった。しかし近年、一人用ファストフ―ド店の増加やコロナウィルスの蔓延に対する防止策などに顕著にみられるように「共食」のあり方は変化してきている。本発表では「共食」に苦痛を感じる主人公・二谷が登場する高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」を取り上げながら、現代における「共食」の形態を確認し、今まで肯定的に捉えられることが多かった「共食」に対する懐疑的な側面を捉えながら、「共食」の持つ意味をより客観的な形で考察していきたい。
日本文学における「共食」をめぐる先行研究では、森本隆子が、ちゃぶ台を囲んだ共食が近代国家の礎をなす一単位である〈家族〉を作り上げたことを示しており、福田育弘が、「ぐりとぐら」が高度経済成長期における〈家庭〉での理想的な「共食」を表していることを指摘している。こうした研究を引き継ぎつつ、本発表では〈家庭〉の枠組みを超えた現代に特有の「共食」に着目する。
ピエール・ブルデューは、身体化したハビトゥスが鮮明に表れる「食」を文化的実践の類型として重要視し、集団の人々が持つ味覚を階級的分断の重要な例として捉えている。本作で描かれる数多くの「共食」は、登場人物たちが同じような階級に属していることを示しているともいえる。こうしたなかで、階級を固定化する「共食」に嫌悪感を抱く二谷と、ケーキなどのお菓子を分配して新たな階層を作り出そうとする芦川という、正反対な二人の接近が示すものを明らかにする。
長田幹彦の新聞連載小説――通俗小説家への転身をめぐって
浅井航洋
本発表は文壇作家から通俗小説家へと転身した時期の長田幹彦の新聞小説を分析し、その史的位置付けについて検討するものである。
長田幹彦は明治末期に『澪』『零落』で有望な若手作家として文壇デビューするも、赤木桁平「遊蕩文学の撲滅」(大5・8『読売新聞』)において遊蕩文学者の筆頭として指弾され、以後文壇を退いて通俗小説家になったという見方が通説化している。しかし山本芳明が指摘するように、「遊蕩文学の撲滅」が発表される直前に幹彦は「最近の通俗小説」(大5・6~7『時事新報』)で通俗小説執筆への積極的な意欲を表明していた。したがって赤木桁平によって批判された幹彦が文壇を追放され、通俗小説家への転身を余儀なくされたという見方には検討の余地がある。
実際、「遊蕩文学の撲滅」が発表される大正五年前後において、幹彦は新聞小説に限っても『埋木』(『万朝報』)、『浮草』(『福岡日日新聞』)、『虚栄』(『時事新報』)、『港の唄』(『読売新聞』)の諸作を精力的に執筆していた。これらの事実を鑑みるとき、通俗小説家への転身は、幹彦にしてみれば必ずしも仕方なく手を染めたものではなく、新しい挑戦という意味合いを含んでいたはずである。しかしながら、それらの新聞小説の内容や特徴については、先行研究でも十分検討されておらず、通俗小説家としての幹彦の実態は未解明な部分が多い。
本発表では『埋木』と『虚栄』の分析を行う。注目したいのは、『埋木』においてはヒロインを女優に、『虚栄』においては主人公の父を鉄成金に設定するなど、いずれも当時の社会で注目を集めていた題材を扱っていることである。幹彦の代表作たる〈祇園もの〉が京都花柳界という特殊社会を舞台にしていたことを考えると、新聞という広範な読者を持つメディアに合わせた創作方法を幹彦が模索していたことがうかがえる。これらの検討を通して、新聞小説家としての幹彦について考察し、久米正雄・菊池寛に代表される大正期の通俗小説史を再考する手がかりとしたい。
新聞連載小説『うき世』から映画『うき世』へ――鏑木清方の挿絵とその受容に関する一考察
谷口紀枝
柳川春葉原作『うき世』は、大正四年(一九一五)七月から大正五年(一九一六)四月にかけ「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載された家庭小説に類される作品であり、婚姻に関連する家族問題、登場人物の相関関係、家族問題の大きな原因となる金銭事情を中心に、家庭内の難題に翻弄され、悲劇的な立場に追い込まれる主人公早苗の境遇を情緒的に描きつつ展開する。小説は長編であるが、その描写の大部分は、家族間または友人との間で交わされる口語話体による会話で成立しており、小説内で描かれる空間も、ほぼ登場人物の周辺に限られるという特徴をもつ。そして、小説とともに毎日掲載された鏑木清方の挿絵においても、人物描写が中心であり、相手を取り替えながら繰り広げられる会話劇を視覚的にも捉えられる紙面となっている。
本発表においては、このような人物中心に展開する特性をもつ小説『うき世』の近世的とも認識される物語空間を確認した上で、そこに添えられた挿絵が読者にどのように響いたのかについて検証するとともに、本作を原案に製作された映画についても言及していく。日活の向島撮影所で作られた映画『うき世』は、連載終結を待たず、大正五年三月に浅草オペラ館において封切られた作品であるが、その映像には、鏑木清方の挿絵との相関性が認められる。主人公早苗を演じる人気女形俳優、立花貞二郎の立ち振る舞いと、清方の描く清楚な早苗の姿は時に重複して映るのである。本発表の目的は、映像資料『うき世』も取り上げることで、小説『うき世』の説話空間が構築されるにあたり大きく関与したと思われる鏑木清方の挿絵が、読者の想像世界を超えて映画製作にまで影響を及ぼしていた事例を報告、検証することにある。
横光利一「機械」と『化学本論』
英荘園
『化学本論』(内田老鶴圃、一九一五)は、東北帝国大学理科大学教授、東京帝国大学教授を歴任した片山正夫博士(一八七七~一九六一)による、「熱力学」を「根柢的原則」とする化学教科書である。「機械」(『改造』、一九三〇・九)の前後、横光利一は、エッセイにおいて、『化学本論』に頻繁に言及している。横光の『化学本論』受容については山本亮介氏の指摘も備わるが、『化学本論』の所説が「機械」に与えた影響については言及されていない。本発表では、「機械」における『化学本論』の用語と理論の受容について、詳しい分析を試みる。
横光は、「機械」において、『化学本論』の化学用語を利用しつつ、『化学本論』に忠実に則って、染色の作業工程を描写している。「機械」の主人公は、化合物と元素の有機的関係を調べるうち、化学反応を支配する「機械のような法則」の存在に気づく。やがて、人間の行動を予め決定する「見えざる機械」の存在を意識するようになる。一方、化学薬品によって「頭脳の組織」が破壊された登場人物は、次々に狂人となっていく。『化学本論』では、「宇宙」を一個の「機械」とみなし、「エネルギー不滅の法則」に基づき、「宇宙間」の「総ての現象」を「機械」のごとく働くエネルギーの平衡とする。さらに、人間の認識も外界のエネルギーが「五感」に接触することによって生じたものと捉え、エネルギーを以て力学的に自然現象を説明する方法を「メカニスチク」と称している。横光は、エッセイ「文字について――形式とメカニズムについて――」(『創作月刊』、一九二九・三)において、この「メカニスチク」の一節を引用し、「同一物体」からのエネルギーが観察者の「頭脳」の相違によって必ず異なるという思考を示していた。『化学本論』を受容した横光は、「熱力学」に基づく「メカニスチク」の理論に注目し、その認識論を深め、「機械」において、人間の認識の相対性を具体的に表現したのである。
江戸川乱歩作品としての「飛機睥睨」(「空中紳士」)の考察――長編作品の試作として
古閑裕規
耽綺社は昭和二年十一月、小酒井不木、国枝史郎の発案で発足し、江戸川乱歩、長谷川伸、土師清二が加わった同人集団である。その執筆形態は歌舞伎の合作のようなものが企図され、同人全員が口頭で打合せた筋を筆記者(岩田準一、岡戸武平など)がまとめ、執筆している。しかし、最初の長編小説「飛機睥睨」(後に「空中紳士」と改題、『新青年』、昭和二年二―九月)のみは、その殆どを江戸川乱歩が執筆したことが乱歩の自伝的随筆「探偵小説十年」等から判明しており、光文社版『江戸川乱歩全集』第三巻(平成十七年十一月)には乱歩作品の一つとして収録されている。本発表では、「飛機睥睨」を乱歩の長編作品の一つと見なし、後の作品との影響関係について考察を行い、江戸川乱歩通俗長編群の試作として位置づけようとするものである。
最初に「飛機睥睨」と「黄金仮面」(『キング』、昭和五年九月―六年十月)との検討を行う。ルブラン型を指向して書かれた「飛機睥睨」と、ルブラン作品の主要人物アルセーヌ・リュパンが登場する「黄金仮面」の両作品で飛行機が作中に登場する。リュパンが飛行機に乗る描写のあるルブラン作「虎の牙」と両作品を比較し、「黄金仮面」における飛行機の描写は「飛機睥睨」より着想を得ていることを明らかにする。
次に「飛機睥睨」に見られる「默阿彌風の悪党」という語に着目する。乱歩が歌舞伎を好んでいたことは知られているが、その作品への影響は殆ど研究がなされていない。乱歩の黙阿弥観について、まず耽綺社同人の面々が歌舞伎への造詣が深かったことに留意しつつ、「飛機睥睨」における描写を検討する。そして乱歩作「黒蜥蜴」(『日の出』、昭和九年一月―十一月)の初出誌に「默阿彌好みの女賊」という表現が見られることから、「黒蜥蜴」との比較検討も併せて行うことで、乱歩作品への歌舞伎受容の一端を明らかにする。
チャタレイ裁判と文壇――作家・出版社・文壇の連携と切断
尾形大
1950年9月12日、検察は『ロレンス選集』(小山書店)第一、二回配本の『チャタレイ夫人の恋人』上・下の翻訳者伊藤整と小山書店社長小山久二郎の両名を、刑法175条猥褻物販売罪の廉で起訴した。日本文芸家協会と日本ペンクラブは8月に緊急の合同理事会を開催し、検察の横暴と不当性、処分の撤回を求める共同声明を全会一致で決定した。翌年5月の第一回公判から1957年の最高裁判決まで、戦後文壇が一致団結してチャタレイ裁判(51-57)を支援しつづけたことは周知のとおりである。伊藤は小説『裁判』や戯作小説『伊藤整氏の生活と意見』等の著作を通じて裁判に社会的な注目を集め、多くの読者を作りあげることで被告陣営を後押しする世論を作り出そうと試みた。一般に法廷および判決に法廷外の事象は影響しないという前提に立ちながら、伊藤も主任弁護人正木旲も法廷外の運動に力を入れて特定の世論を作り出そうとした。彼らは無罪という目的のために協力し奔走した。ただし、弁護団は被告(翻訳者と出版者)を弁護したのに対して、伊藤は翻訳者・作家としての立場で裁判にかかわった。同裁判を通じて大きな争点となった翻訳者と出版者(社)の「共謀性」の問題は、両者の「立場の違い」に深くかかわるものと考えられる。第一審で伊藤は無罪、小山は有罪の判決を受けたことで両者の「立場の違い」は裁判所に認められたはずだった。しかし、小山と弁護団は即日控訴を決め、文壇もそれを後押しした。本発表をとおして、チャタレイ裁判において文壇という非実在の場が出版社と翻訳者(文学者・作家)という二つの立場をどのように抱え込みながら立ち現れたのか、伊藤と弁護団、そして法廷内外にかかわった文壇、それぞれの思惑の重なりとズレについて、公判と並行して発表・執筆された小説『裁判』や正木の伊藤宛書簡等を手がかりに検討する。同裁判を通じて文壇の外周にひかれる境界線のゆらぎをとらえ直してみたい。
安部公房『燃えつきた地図』論――地図の象徴性と他者の生成
李楚妍
安部公房の長編小説『燃えつきた地図』(一九六七)は『砂の女』(一九六二)および『他人の顔』(一九六四)とともに、「失踪三部作」とされている。主人公の探偵は失踪者を追う過程において様々な出来事を経験し自分を見失い、巨大都市の迷路を彷徨う。先行研究において、この作品の舞台とされる都市空間の構造や作品の結末の意味はよく論じられてきたが、十分に検討されていない問題点がまだ残されている。重要なものとして地図の問題が挙げられる。
地図は作品のタイトルに含まれ、作品の内容においても重要な位置づけを持っているが、先行研究のなかで地図に関する具体的な論考が非常に少ない。そのうち、中野和典は地図が契約範囲を表象すると主張しており、菅原祥は地図を世界の安定性と自己の同一性を保証する装置として解釈した。本発表では、従来の論考を踏まえ地図の定義と機能を再検討し、地図は人間の認識範囲の象徴であることを提示したい。主人公と田代が描いた地図はほぼ論及されていなかったが、それに照明を当て、作品に挿入された二人の地図と彼らの世界観との高い関連性を指摘し、田代の人物像をあぶり出す。田代は既知の世界と未知の世界を混同しており、彼の世界観は主人公に多大な影響を与える。
田代などの人物に影響されつつ、主人公の地図への見方と世界観が変化していく。彼は既知の世界の狭さを徐々に認識し、世間一般的な常識・概念枠から逸脱した人間、つまり「他者」になっていく。作品において、そのような他者の生成が如実に描かれている。自分の認識範囲を規制する地図を手放し、概念化と切り離された新世界へ旅立つ主人公は、人間社会の新しい在り方をわれわれに開示する。その新世界において既知と未知を区別する基準がなくなり、物事は概念枠から解放され自由に生成していく。地図を手掛かりに主人公の軌跡を辿り、『燃えつきた地図』がほのめかす世界の未来像を解明したい。
五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』論――偽りの「文学」とミステリー
白井耕平
五木寛之の直木賞作品「蒼ざめた馬を見よ」(『別冊文藝春秋』、一九六七・一)は、小説『蒼ざめた馬を見よ』をめぐる、冷戦体制下の国際的陰謀を描いた作品である。この作中作は、M・ミハイロフスキイなる虚構上の人物の作品であり、ソ連にとって不都合な「真実の文学」であるとされる。本作は従来、ソ連の官僚主義を批判する「「政治と文学」の問題を提起した小説」(小松伸六)として読まれ、戦後派的な問題を汲む作品として理解されてきた。本作に先行して、ソ連における地下出版と強制収容を主題として作品に井上光晴「黒い森林」(『展望』、一九六六・一~一二)がある。本作はこの作品の連載と平行して執筆された。
五木は本作を「エンタテインメントとして構成されたミステリー」に仕立てた。本作は川崎浹作によってロープシンのテロリスト小説「蒼ざめた馬」との関係が指摘されたが、本発表では、本作とアガサ・クリスティー「蒼ざめた馬」(橋本福夫訳、早川書房、一九六二)との対応関係を検討する。クリスティー作品では、作中に推理作家が登場し、悪とは偽りの姿にすぎないという命題を自己言及的に述べる。この点に注目して、善であるはずの「真実の文学」が最後には「偽物」であると曝露される本作との関係について検証する。 本作は「政治の悪への痛烈な告発」として読まれた(佃實夫)。しかし、その根拠となる小説や作家は、あくまでも偽物であり偽者である。ここに戦後文学の「政治と文学」における文学優位説を脱構築する本作の潜勢力を見出すことができる。さらに重要なのは、国家と作家の対立という内容が、ミステリーという形式によって規定されていることである。本作の検討を通して、本発表では、五木が標榜した「エンタテインメント」が戦後文学への批判的な介入を狙っていたことを明らかにする。