支部だより
北海道支部
◎三月一五日、支部例会をオンライン開催(ZOOM使用)した。タイトルと発表者は以下の通りである。
〈研究発表〉
中野重治「汽車の罐焚き」論 押野 壮
少女マンガにおける「男装少女」のジェンダー表現
――『リボンの騎士』から『薔薇王の葬列』まで オルホエラ マリア
玄鉄絢『少女セクト』論
――ゼロ年代におけるレズビアン・ポルノグラフィティの再編成 郭 如梅
『1Q84』と村上春樹の翻訳作業
――青豆を中心に 沈 嘉琳
押野は、日中戦争勃直前という緊迫する時代状況の中で、一介の労働者の個人的な体験を描いた本作における「抵抗」の意義を、抵抗の文学なのか否かといった従来の二分法的評価とは異なる観点から論じる。革命の敗北が決定的になった時代状況下において、来るべき未来に向けて過去の記憶を保存する〈記憶の抵抗〉の試みとして本作を位置づける。
オルホエラは、少女マンガにおける男装少女の系譜を辿りながら、『薔薇王の葬列』の特質を論じた。従来の男装少女は、性別越境を志向しつつも、最後には女性に戻るという選択をする場合が多かったが、『薔薇王の葬列』では、「どちらでもあり」と「どちらでもない」という曖昧さが中心化されるという。
郭は、男性向けのポルノコミック『少女セクト』を取り上げ、ゼロ年代前半におけるレズビアン・ポルノグラフィティが、どのようにレイプ表現定型と性規範から逸脱し、〈百合〉表象として再編成されたのかを考察する。本作は、恋愛感情に不可視化されがちな性暴力を顕在化し、男役の性被害も表象しているという。
沈は、本作のヒロイン及び彼女にまつわる人物を造形するにあたり、トルーマン・カポーティの作品からイノセンスを、レイモンド・チャンドラーの作品からハードボイルド小説の特徴を、スコット・フィッツジェラルドの作品からは名場面をそれぞれアレンジしながら取り入れているという。
◎二〇二五年五月三一日付けで、『北海道支部会報』二八号が発行された。論文題目と執筆者は、以下の通りである。
森田たま『石狩少女』―北海道を生きる少女たちの物語 姜 銓鎬
倉橋由美子初期作品における身体表象の特性
――「貝のなか」・「密告」・「蛇」を中心に 中川 智寛
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」論
―建国神話へのエクソフォニックな眼差し 袁 嘉孜
少女マンガにおけるレズビアン表象の再編成
―森永みるく『くちびるためいきさくらいろ』を中心に 郭 如梅
『会報』は一部八〇〇円(送料込み)で販売している。希望の方は、メールアドレス( hkinbun@hotmail.com )まで連絡をください。(押野武志)
東北支部
2024年度夏季大会を7月12日(土)午後、福島市のコラッセふくしま(小研修室)を会場に、オンラインとの併用で開催した。自由研究発表1件と、特集ラウンドテーブルを下記のとおり行った。会場に30数名、オンラインで20名ほどの参加があった。学生の参加が多く、また新たな支部会員の参加もあり盛会だった。
(研究発表)
張怡「晩年期の「永井荷風」のイメージを形成する力場」
(特集)ラウンドテーブル「日本近代文学史をどう描くか」
山﨑義光、遠藤郁子、尾崎名津子「『日本近現代文学史への招待』の編集・執筆・活用」
多田蔵人「漂流記としての近代文学史 文体史による編み直しの試み」(オンライン)
柳瀬善治「文学史記述についての一考察 比較思想的・比較文学的視座から」(オンライン)
張怡氏は、戦後1950年代(晩年)の「永井荷風」が、広告から新聞記事、そして批評にいたる言説上で、巨匠とされる一方衰えた作家イメージで評されたことを多くの具体的資料によって明らかにした。荷風自身、書く材料を捜しているが生きている材料がないと語ってもいる。50年代の作家たちは長篇小説を盛んに発表しており、そうした潮流に対してエッセイや短篇しか書くことのない荷風の同時代評価は低かった。しかし、同時代評価とはまた異なる観点で晩年の荷風作品を再評価できるのではないかとした。その手がかりが、精細な感覚の描写と日記の枠組みを潜めた断片として書かれていることにあるとした。
ラウンドテーブルでは、「文学史」をめぐる最近の出版書・論文を踏まえた報告と意見交換がなされた。
まず『日本近現代文学史への招待』(ひつじ書房、2024)について、山﨑から編集趣旨を報告した。近現代文学作品を「読んでみることへのいざない」を趣旨とする初学者向け入門書として企画され、およそ20年ごとの年代別で区切り、各章それぞれに特定の観点を設けて編集したものであることを報告。そのうえで、文学テクストを社会的文脈との関係で捉えたことで「文学」をどのように捉えることになったかを問題提起とした。遠藤氏は、女性と文学、現代と文学という観点で近年どのように捉え直しが進められてきたかを報告。女性ジェンダーという社会的観点から文学を捉え直すことで開かれる可能性について問題提起した。尾崎氏は、同書を用いた講義の受講学生からとったアンケートを紹介。高校までに学んだ文学史にもっていたイメージ、本書との違い、文学史を学ぶことの意義などについての回答と本書の性格を踏まえ、日本文学研究の基礎知識であるに止まらず、他の分野のことを学ぶうえでも、また卒業後の教養としても活きる「ハブ」になりうるのではないかということ、多角的な観点で文学を捉え直すことに繋がりうること、歴史的視野で文学を読み直すことで自分の「今」をふり返る契機になりうることなどを報告した。
多田蔵人氏は、国文学研究資料館編『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信、2025)の編集・執筆を踏まえて報告。明治から大正期にかけて多く出版された文例集を手がかりにすると、近代化する社会の中で演説や話しことば、書きことばの類型的表現が産み出されていたことがみえてくる。そして文学は多数の類型的表現がせめぎ合う場だったと捉えられるという。こうした解明により、類型の向こうに広がる社会・文化活動と文学テクストとの綱引きのようなプロセスが見えてくることについて報告された。
柳瀬善治氏は、既発表論文「「世俗的批評」・「弁証法」・「原爆文学」─文学史記述とカタストロフをめぐる覚え書き」(『原爆文学研究』23、2025)を踏まえて報告。加藤周一『日本文学史序説』(1973-1975)、小西甚一『日本文藝史』(1985-1992)など、日本における文学史記述の例と、世界大戦の戦間期の西欧文学と思想状況を活写したハリー・スロチャワー(Harry Slochower, Mythopoesis : mythic patterns in the literary classics, 1970)およびこれと関連する英語圏の文学・哲学の研究状況を対照した。その上で、「西欧」「近代」をめぐる問いと東アジア世界をめぐる問いの双方を意識して日本の文学史をとらえ直すには、表象不可能な「他者」の契機をふまえることが必要で、それによって他でもありうる可能性(偶有性)、動態的な捉え直しの契機をもった文学史記述が可能になるのではないかと報告された。
参加者も交えた意見交換では、文学・文学史をどのようにとらえるか、特定の観点から文学史が記述されることで不可避に偏る知識や解釈を教えることをどう考えるか、類型化された言葉が産出される社会と文学テクストの関係をどう理解したらよいか、文学史記述が更新される契機としての他者性に関することなど、多角的なやりとりが行われた。
大会に先立って運営委員会が行われた。2024(令和6)年度会計決算および監査が報告され了承された。大会担当からは、発表者募集案内について、支部のブログや「会報」で代替することとし、ハガキの郵送を廃止することが提案され了承された。また、「支部活動活性費」の運用について説明があり、今後の大会開催においてどのように活用しうるかについて認識を共有した。会報担当からは発行状況の報告とともに、今後PDF版を公開することを検討していくことが報告された。なお、これらのことにつき大会終了後に行われた総会でも報告され了承された。
(山﨑義光)
新潟支部
新潟支部では、昨年度末に左記のとおり支部例会を開催した。
〇三月二二日(土)午後二時〜五時、於・新潟市生涯学習センター三〇九講座室およびZoomオンライン
①三浦綾子『海嶺』論―キリスト教と非帰還者―(その一)
堀 竜一(新潟大学名誉教授)
②私の啄木研究を振り返って 若林 敦(長岡技術科学大学)
堀氏の発表は、三浦綾子の長篇歴史小説『海嶺』を取り上げ、典拠や参照資料と対比し三浦綾子の創作箇所を明らかにしたうえで、漂流小説(漂流記小説、漂流民小説…)におけるキリスト教題材のもつ意味について考察しようとしたものである。漂流小説とは、日本近世の漂流記録などに基づき創作された日本近代小説を指す。多くの漂流小説が基づく日本近世の漂流記録などは、日本帰還を果たした漂流民の証言などを記録したものであるが、三浦綾子の『海嶺』は、日本帰還を果たせず、記録がほとんど残らない漂流民(非帰還者)の姿を物語化したものである。発表では、知多半島小野浦の千石船・宝順丸の漂流事例を、近世の数多くの漂流記のなかに位置づけ、次いで三浦綾子が参考文献・資料として挙げているもののうち二十点ほどと小説の場面を対照し、漂流民たちが救助後も、滞在先のマカオでも、鎖国体制下で厳禁のキリスト教(文化)と接触し、ギュツラフの聖書和訳に深く関与する点に焦点化する小説の力学を明らかにした。そのうえで、キリスト教との接触と非帰還者の姿を描くことの意味について考察した。
若林氏の発表は、大学定年退職にあたり、自身の石川啄木研究を振り返り、明治42年秋から明治43年6月頃を対象として、明らかにしてきたことを以下の四点に整理した。
①小説「我等の一団と彼」(明43・5~6稿)の「我等の一団」は硬派の社会部記者と想定され、「私」は社会の不正を告発し、正義・公正の実現に努め、市民生活の向上や現実社会の改良を言論により推し進めようと行動するジャーナリストとして描かれようとした。②啄木が大逆事件(明43・6)に受けた衝撃は、「利己」の立場を超えて個人の思想とその実践を一致させる人間像を被告たちに見たことにあると考えられる。③明治43年3月作歌再開後の短歌には、社会関係、家族関係の中で不本意な「二重生活」をする啄木の揺れ動く気持ちが表現されている。④一方、勤労や日常生活という主題では、啄木歌に自然主義とは異なる、主題への肯定的な感情も見られ、これが『一握の砂』(明43・12刊)に通じる。
これらをふまえて、『一握の砂』編集・刊行の時期から翌年の大逆事件判決(1月)後にかけての啄木を次のように論じた。啄木は作歌に生の証という意義を見いだし、一方で、社会主義・無政府主義を学ぶことで自己の歴史意識を形作る。その両者の底流にあるのは〈生きる意味〉への問いであろう。自分は何のためにこの世に生を受け、何のために生きるのか。啄木は、それを「社会」に生きる市井の人間として、時代と向き合う中で問い続けた。(堀竜一)
北陸支部
三月の支部だよりでお伝えしたように、北陸支部では二月に支部大会をおこなった。もともと規模が小さい支部であることに加え、新規加入者の減少傾向もあって、このところ年一度の大会を開くのがようやくといった状況が続いていたが、何とか活性化を図ろうと打ち合わせなどをおこなった。
ひとまずは北陸地区に赴任された先生にお願いして、一一月三〇日に大会を実施する予定である。また、大会に加えて地区外の先生もお招きするなどしてテーマを決めてシンポジウムを開催するなど、年二回程度は研究活動の行事をおこなえるように取り組みを図ってまいりたい。
なお、八月三一日(日)から九月三日(水)の日程で、前韓国外大日本学大学長の崔在喆先生ご一行を迎え、小松から福井・敦賀の松尾芭蕉、与謝野晶子、島崎藤村『夜明け前』ゆかりの地を視察し考察する。
(飯島洋・團野光晴)
東海支部
東海支部は、二〇二五年三月一六日(日)に、二〇二四年度シンポジウム・第七九回研究会として、「その翻訳の姿」を対面、オンラインのハイブリッド方式により実施した。
本シンポジウムは、英米語圏における三島由紀夫の『潮騒』や川端康成の『雪国』、中国語圏における東野圭吾、湊かなえらの推理小説を俎上に載せながら、近現代の日本文学の翻訳を取り巻いているもの——異国間での種々の差異、国際情勢下における日本の位置、さらには受容の動態など——に眼差しを向け、浮かび上がる諸問題について考察するものである。
《シンポジスト》
〇片岡真伊(国際日本文化研究センター)「ミシマの英米語圏への航海と航跡——その始まりの一書『潮騒』英訳(1956)から拓く視界」
〇荒河秀(名古屋大学大学院人文学研究科 博士後期課程2年)荒河秀「日本文学の翻訳における序文の効果——インターネット読者レビューを用いた分析」
〇尹芷汐(椙山女学園大学)「「清張以降の社会派」とは何か——21世紀中国における日本推理小説の翻訳と読者レビュー」
《ディスカッサント》
〇山本亮介(東洋大学)
《司会》
〇吉田遼人(愛知学院大学)
片岡氏は、二〇二五年に生誕百周年を迎える三島由紀夫をとりあげ、その英訳出版草創期において、三島作品がいかなる事情において選定・翻訳されたかについて考察を行った。本発表では、三島の国際的な認知の最初の一歩となった『潮騒』の米語訳(The Sound of Waves, 1956; メレディス・ウェザビー訳、クノップフ社刊)に焦点が当てられ、翻訳・編集・出版過程で生じた諸問題と変容の内実を詳細に分析することで、英米語圏において『潮騒』が読まれる際の特徴とともに日本文学の受容の視座の特徴が示された。
荒河氏は、翻訳された作品の序文を含むパラテクストを検討の対象とし、川端康成の『雪国』の英訳 Snow Country に対する読者レビューを分析することで、翻訳文学における序文の役割とその影響について分析を行った。プログラミング技術を応用し、形態素解析や n-gram による構文解析から、読者の作品評価、読みに「序文」が与える作用について解明することで、読者の求める日本文学の在り方が提示された。
尹氏は、21世紀の中国の翻訳環境に目をむけ、日本の推理小説の翻訳状況について考察を試みた。発表では、中国の各オンライン書店及び読書サイト Douban の「推理」カテゴリーにおいて、「松本清張以降の社会派」と評価されている東野圭吾や湊かなえ、葉真中顕、中山七里らをとりあげ、それらの作品の評価言語に遍在する「社会派」というキーワードに注目した。日本における社会問題(児童虐待や介護問題など)が、日中の言語的・社会的差異をいかに越えて翻訳されているのかの側面が示された。
質疑においては、ディスカッサントの山本氏によって、三者の議論の整理をもとに翻訳がはらむ通時的、共時的可能性への視野など重要な提起がなされた。翻訳が日本文学の可能性を開くとともに、翻訳先においていかに受容されるかの問題が浮き彫りとなり、全体の討議も活況を呈した。
対面・オンラインともに数多くの参加者を迎えた本シンポジウムは、日本文学の翻訳をめぐる多様な解釈を促し、また研究の視点の拡大へ寄与するものともなった。ここでの知見はさらなる研究発展の可能性を示しており、大変意義深いシンポジウムとなった。
(柳井貴士)