秋季大会特集 〈物〉の経験―思想としての骨董・民藝
【特集の趣旨】
骨董・民藝を見ること、あるいは蒐集・所有すること、それはどのような経験なのか。小説家や批評家といった文学者たち、また文学者以外の者たちによっても、その経験はそれぞれに手探りで言語化されてきた。
一九三〇年前後、骨董・古美術の蒐集鑑定で知られた青山二郎の周囲には、小林秀雄・河上徹太郎・中原中也・大岡昇平・中村光夫ら文学者たちが集った。後に親交を結んだ宇野千代や白洲正子らも含め、青山に関しては多くの文章が書かれている。小林秀雄をはじめ「青山学院」で鍛えられた者たち、また、川端康成、安東次男、井伏鱒二、室生犀星など、骨董・古美術に魅せられた作家たちは数多い。彼らは自ら骨董や古美術を購入して蒐集するだけでなく、随筆や評論を書き、ときに小説の中に登場させている。
同時代には、柳宗悦を中心に、日用の雑器に「用の美」を見出す民藝運動が創始されている。後に離れるものの、青山も運動の初期には参加していた。民藝運動は、美術界では評価されていなかった無名の民衆の作り手による工藝に価値を与え、朝鮮(李朝)の陶磁器や民画、家具、また沖縄の染物など、周縁的な地域の文化の保護にも積極的に関与した。柳の運動は、時として周縁地域に対する支配・被支配の構造を補強するものとして批判もなされてきたが、その功罪を文学研究の側面から照らし出す余地はあるだろう。運動自体には小説家など狭義の文学者は参加していないが、柳は「白樺」同人であったし、保田與重郎のように運動に反応している文学者もいる。また、青山二郎が友人の作家たちの本の装幀を手がけていたように、民藝運動も芹沢銈介らによる装幀を通じて文学者と接点を持っている。
すでに美術館や文学館では、「青山二郎の眼」展(二〇〇七、世田谷美術館)、「青山二郎と中原中也」展(二〇〇六、中原中也記念館)、川端康成のコレクションを中心とする一連の展覧会、本や雑誌の装幀に着目する展覧会などが行われている。民藝に関しても、「民藝の一〇〇年」展(二〇二一、東京国立近代美術館)、「民藝MINGEI 美は暮らしのなかにある」展(二〇二三、大阪中之島美術館)と、近年大きな企画展が続いている。しかし、文学者の骨董や古美術の蒐集、民藝への関心は、しばしばその作家の個人的な趣味と見なされ、エピソードとして知られていても、研究の場で論じられる機会は少ない。たとえば西洋美術の受容と比べても、個々の事例を背景にある文脈と接続して歴史的に位置付けることは十分には行われていない。
骨董に憑かれた作家たちのテクストを分析した美術史家の松原知生は、「「骨董」という特異な存在がもつ思想的・文化的な意義については、まだ十分に掘り下げられているとはいえない。それは単に「美術」の前近代的な亜種あるいは趣味的な変種なのではなく、固有の美学的=感性論的な価値を有するものである」と述べ、「骨董の(複数の)感性論 」を提案している(『数寄物考 骨董と葛藤』二〇一四、平凡社)。骨董・民藝という具体的な〈物〉に相対し、その中に美を見出すことは、発見であると同時に新たな価値の創造でもあるはずである。それは個人の経験だが、時代の思想潮流という歴史的な文脈の中で行われたことでもある。本特集では、一九三〇年代から現代まで、文学者・美術家・建築家など複数の事例を取り上げ、骨董・民藝という〈物〉と相対する経験が何であったのか(何であり得るのか)、思想あるいは美学としての意義を明らかにしたい。
運営委員会
【講演要旨】
近代メディアと古物のメディウム――日本近代骨董文化論序説
松原知生(西南学院大学)
近代日本の少なからぬ文学者たちが骨董愛好を趣味としていたことは、よく知られている。とりわけ川端康成や小林秀雄、青柳瑞穂や安東次男らは、美術品を単なる挿話的なモチーフとして作中に登場させるだけでなく、古物を蒐集し愛玩するという行為そのものを、創作や省察を起動し駆動させる真の動因=モチーフとなした。加えて、彼らの作品においては、古物がもつ素材感や物質性が、生死・真贋・虚実といった一連の二項対立を架橋する媒介として機能している点も、注目に値する。骨董文学によって言語化されたこのような両義的なメディウム(素材/媒介)性は、主体と客体の間の距離を前提とし、身体的な関心や欲望の関与を禁ずる、近代主義的な美術鑑賞のあり方に再考を促すものといえる。
ところで、昭和初期に古美術趣味、とりわけ古陶磁愛好が知識人たちの間で流行した背景として、ちょうど同じ頃、柳宗悦の『工藝』や北大路魯山人の『星岡』など、骨董や民藝に関するさまざまな雑誌や機関誌が創刊されたことが挙げられる。古美術趣味については従来、蒐集家やジャンルごとに個別に考察されることがほとんどであったが、近代的な文芸メディアとしての雑誌という視点からの横断的な考察を通じて、古物を媒介とした異分野間の人々の交流の未知なる具体相が明らかになることが期待される。
「メディア」の語が「メディウム」の複数形であることはいうまでもない。近現代においては文学者以外にも、洋画家の鳥海青児、建築家の白井晟一、映画監督の小津安二郎、漫画家のつげ義春、装幀家の菊地信義、現代美術家の杉本博司や村上隆など、さまざまな表現媒体を糧とする創造者たちが、古美術愛好の経験を作品やテクストへと昇華している。その中で新旧複数のメディウムがどのように融合あるいは衝突し、相互的な活性化へとつながったのであろうか。学際的な観点からの解明が待たれる問いである。
本講演では、以上のようなトピックから特に重要と思われる論点をいくつかとり上げ、古物のメディウムが(複数の意味における)近代的メディアととり結んでいた多様な関係性に光を当てることで、日本近代における骨董文化の意義を新たに考察するための端緒としたい。
【研究発表要旨】
小林秀雄「骨董」「真贋」の位置──文学・美術批評との相関を通して
山本勇人(大阪公立大学大学院博士後期課程)
小林秀雄は、一九三八年に東京日本橋「壺中居」で「鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壺」と出合って以来(これを四一年とする説もある)、〈骨董〉の世界に魅了され、青山二郎の手引きのもとに蒐集家の「眼」を鍛え上げた。「僕は陶器(せともの)で夢中になつてゐた二年間ぐらゐ、一枚だつて原稿書いたことがない。陶器を売つたり買つたりして生活を立ててゐた」(坂口安吾との対談「伝統と反逆」『作品』一九四八・八)。そうした経験により会得した〈物〉への認識が、戦後、「骨董」(『夕刊新大阪』一九四八・九・二八−三〇)「真贋」(『中央公論』一九五一・一)という二つのエッセーに書き記されたことはよく知られる。小林はそこで、「骨董いぢり」を西洋近代的な「美術鑑賞」とは全く異質な美的経験として、また同時に、「新しい美を創り出す」表現行為の可能性として描き出した。
小林の骨董体験は、従来、作家自身の証言や、青山、白洲正子、廣田熙ら関係者の回想によって半ば伝説的に語られてきた。ところが今世紀に入り、永原孝道『死の骨董』(二〇〇三)、松原知生『物数奇考』(二〇一四)、石川則夫「「慶州」から「骨董」まで」(二〇〇九・五)などの諸論が、より分析的な視角を投じた。〈骨董〉は、小林の芸術・歴史・批評をめぐる思想形成および変容の契機として論じられ、再定位されつつある。
本発表では、「骨董」「真贋」の二つのテクストを中心とした小林の〈骨董〉言説を、戦前−戦後の文学・美術批評(日本・東洋美術批評)に照らし、それらの相関を検証する。〈物〉に触れ、その経験を記述する行為は、小林の批評活動において、いかなる位置を占めるのか。批評文に刻印された身体性、対象を取り巻く制度との相克、そして、不可視なる霊性への指向を補助線として読解する。結論部では、先行論が問題化した、生と死の媒介としての〈骨董〉(松原論)に立ち戻り、失われた存在への〈哀悼〉という視座から、新たな解釈を試みたい。
川端文学における古美術という〈物〉の経験
谷口幸代(お茶の水女子大学)
美術を愛好した作家のひとりに川端康成がいる。川端の美術への関心は、美術館や展覧会場で鑑賞したり、図録を眺めたりして楽しむといった範囲にとどまらず、心惹かれた品を入手し、できるだけ手元に置こうとするものであった。
川端が蒐集した美術工芸品のコレクションの内容は、縄文時代の土偶からロダンの彫刻や草間弥生の絵画まで幅広く、絵画、墨蹟、陶磁器、彫刻などジャンルも多岐にわたる。川端が入手後に国宝に指定された浦上玉堂の「東雲篩雪図」や池大雅・与謝蕪村合作の「十便十宜図」等、美術史上貴重な作品もそこには含まれている。
川端は随筆でしばしば美術への関心を語っており、また新潮社版個人全集で愛蔵品の数々が川端自身の解説文とともに写真で紹介されたこともあることから、川端の美術への傾倒ぶりは生前から知られていたことであるが、近年、川端コレクションに関する展覧会が開催され、美術雑誌でも同様のテーマで特集が組まれるなど、美術愛好家としての川端の姿が改めて注目されている。
発表者は、川端にとって美術、特に古美術を愛好することは単なる趣味や道楽のようなものではなく、文学の創造に密接に関わるものであると考えている。本発表では、「山の音」(一九四九~五四)や「千羽鶴」(一九四九~五一)など古美術品が登場する川端の諸作品を取り上げ、実在する古美術の作品がどのように小説内に取り入れられているのか、古美術品を登場させることがその小説にどのような意味をもつのかを分析する。具体的なテクストの分析から、古美術という〈物〉を見る経験、また蒐集・所有する経験を創作へと転化させた川端康成独自の美学とその意義を検討し、同時代の芸術家たちの事例と比較検証しながら歴史的社会的な文脈の上で位置付けをはかることを試みたい。
日本近代文学と民藝運動――思想としての民藝の系譜
坂元昌樹(熊本大学)
日本近代文学と柳宗悦(一八八九―一九六一)の民藝運動は、歴史的にどのような関係を持ったのだろうか。『白樺』同人の文学者たち、例えば武者小路実篤や志賀直哉らと柳の関係は周知の通りだが、他にも近代の文学者と民藝との接点は多様である。その接点の一つに、文芸批評家の保田與重郎(一九一〇―一九八一)による柳とその民藝運動に対する関心が存在する。いわゆる「日本浪曼派」運動の中心の一人であった保田は、評論「現代日本文化と民藝」(『月刊民藝』一九四〇・一)の中で、自己の文芸評論の発端が柳宗悦の『工芸の道』(一九二八・一二)に対する批評の試みであったと回想する。保田はこの評論中で、柳の民藝運動を日本の美学の歴史における柳田國男と折口信夫の民俗学の運動と並ぶ「変革的方法論」であったとして評価し、青野季吉の無産者芸術としての民藝観を批判して「日本人の自覚」を示す「美学運動」として論じた。柳と民藝運動に対する同様の評価は、後年の回想集『日本浪曼派の時代』(一九六九・一二)においても一貫しており、保田の思想形成における柳の思想と民藝運動の持つ重要性をうかがわせる。また、後年の保田は、民藝を通じての「日本人の自覚」の形成という問題を論じて、複数のテクストで「民族の造型」という思考の重要性を語っており、その「民族の造型」論の展開は、柳の民藝思想との関係において興味深い要素を含んでいる。保田は各時期に民藝への言及を行う一方で、一九四〇年の日本民藝協会が主催した沖縄旅行に同行するなど、柳らの民藝運動のグループと実際に直接的な交流を持っていた。報告では、柳の民藝思想の検討を踏まえた上で、保田による民藝運動の受容の考察を中心としながら、広く日本近代文学における柳の思想とその民藝運動の受容の諸相について論及したいと考えている。