春季大会個人発表要旨

〈父の娘〉の物語――吉屋信子『地の果まで』――

木下響子

本発表は、吉屋信子の文壇デビュー作である『地の果まで』(大正九年[1920])を取り上げる。本作は朝日新聞の懸賞小説で一位を取り、幸田露伴と徳田秋聲から高く評価され、徳田秋聲からは特に、「新時代に可也の理解を持つてゐる」と評された。本作の主人公である緑は、亡くなった父の遺志を継ぐことを弟に強要しており、弟のみならず自身にも重圧をかけている。このような緑の人物造形から、彼女は〈父の娘〉であるといえるだろう。「春藤家は私です」という緑の台詞からは、彼女が〈家〉そのものに囚われていることが見てとれる。〈近代家族〉と〈家〉については、研究がそれぞれ蓄積されてはいるが、〈近代家族〉に対し、〈家〉は前時代的なものであるという見方が強い。しかし、本作からは〈近代家族〉の課題とは、すなわち〈家〉そのものであったといえるのではないだろうか。
さらに、本作が翌年に東京・大阪の両朝日新聞に連載された「海の極みまで」、昭和二年に『主婦之友』誌上で連載された「空の彼方へ」に続く、三部作の第一作目であることにも注目したい。三部作として捉えたとき、主人公であるヒロインたちと共に、ヒロインに対置して置かれる男性たちにも注意を払うことが重要となる。三部作では、男性たちも、女性たちと同様に家父長制によって抑圧を受けていることが繰り返し語られている。新聞小説および婦人雑誌の連載小説という場を与えられ、〈家庭小説〉として評価されたこれら三部作は、同時に〈家庭〉の問題点を浮き彫りにしている。それは同時に、女性に限らない〈近代家族〉がはらむ〈家〉、つまり家父長制の問題を追求することであり、吉屋が女性を中心としながら、包括的に社会問題として家父長制を見つめていたことが認められるだろう。


谷崎潤一郎文学とホモセクシュアリティ

佐野日菜子

日本でオスカー・ワイルドの文学が影響力を持ち始めた時期には、ワイルドの「同性愛」要素は重要視されていなかったと、これまでのワイルド受容研究では考えられてきた。しかし、調査してみると、早い時期からワイルドの「男色」エピソードは紹介されていたことが分かる。まず「サロメ」ブームの火付け役となった 1907 年の森鴎外の文章で、ワイルドの「男色」エピソードが複数紹介されている。その後のワイルド紹介の文章にも、「男色」エピソードが含まれるものが散見される。そもそもワイルドは、「男色」家のイメージとともに日本に紹介されたのである。なお、この時期日本では「同性愛」がアイデンティティ化する大正後期より前であり「男色」コードが支配的だった(古川誠「セクシュアリティの変容」)ことに留意したい。
同性愛の罪で投獄された際の手記である「獄中記」は、ワイルドの代表作として日本でも1911 年に邦訳が出て早くから読まれたが、同性愛を背景とした作品であるという事実が日本で知られていたかどうかはこれまで明確にされてこなかった。ドリアン・グレイの美貌に周囲の男性登場人物が魅惑される「ドリアン・グレイの肖像」も同様、1913 年に邦訳が出て広く読まれたが、当時ワイルド自身の「男色」イメージと結び付けて受け止められたのかどうかはこれまで曖昧であった。しかし、これらがワイルドの「男色」イメージを踏まえて読まれたのだとすれば、当時のワイルド受容についての理解は改めなければならないということになる。
また、ワイルドの影響を受けた日本の作家の代表は谷崎潤一郎だが、実は非常に多くの谷崎作品に男が男に対して魅力や快楽を感じる場面が含まれている。谷崎作品のそういった側面も、ワイルドの「男色」イメージが当時重要なものとして捉えられていたことを踏まえて検討する必要が生じるだろう。この点は、日本の耽美主義の出発点を問い直すことでもある。


谷崎潤一郎「魔術師」における世紀末芸術からの影響について

芹澤凜香

谷崎潤一郎は1919年に春陽堂より『人魚の嘆き 魔術師』を出版している。同書には表題作である「人魚の嘆き」と「魔術師」の二作が、水島爾保布による美麗な挿絵と共に収録されている。しかし二作ともこれが単行本初収録というわけではなく、1917年に同じく春陽堂より短編集として刊行された『人魚の嘆き』が初収単行本にあたる。1917年版の『人魚の嘆き』所収の「魔術師」には名越国三郎が挿絵を提供しているが、名越と水島はどちらもオーブリー・ビアズリーの影響が色濃く見られる作品で知られる画家であった。
挿絵画家の選定に谷崎が関与していたことは、山中剛史や前田恭二の先行研究によって明らかにされているが、1917年版の出版時に名越によるビアズリー風の挿絵が発禁騒動の元になってもなお、画風の似通った水島に挿絵の製作を依頼したことからは、谷崎が本作においてビアズリー風の挿絵がなくてはならないものだと強く感じていたことが伺える。
しかし先行論において、水島の挿絵と絡めて論じられるのはもっぱら「人魚の嘆き」のみであり、「魔術師」についての論考はあまり行われていないのが現状である。前田が「挿絵本にもう一編、抱き合わせに「魔術師」を入れた理由については、目下のところ、これという答えは持ち合わせない」(「『人魚の嘆き・魔術師』について」2020年)と述べていることからも、「魔術師」における挿絵の役割が十分に検討されていないことが伺える。
しかし、両性具有や孔雀、半羊神などの世紀末芸術的なモチーフが多く見られ、なおかつ博覧会的なモチーフが多数登場することからも、谷崎が本書の制作にあたり世紀末文化を最大限意識していたことは疑う余地がないだろう。
そこで本発表では、挿絵本『人魚の嘆き 魔術師』において「魔術師」とその挿絵が果たした役割を検討するとともに、谷崎がいかに世紀末芸術を受容、表現しようとしていたのかについて考察したい。


文学と映画の〈Mal-Adaptation(不・適応=悪・翻案)〉――谷崎潤一郎「痴人の愛」とそのアダプテーション(視覚化)の展開――

西野厚志

谷崎潤一郎の「痴人の愛」(一九二四〜二五)は、これまで木村恵吾監督・京マチ子主演(一九四九)、同監督・叶順子主演(一九六〇)、増村保造監督・安田道代主演(一九六七)と、繰り返し映画化されてきた。このほか、「ナオミ」(一九八〇)、「快楽写真館 エロスは暗室の中に」(二〇一七)、「野良猫とパパ活」(二〇二〇)といった翻案、さらに実現しなかった企画(管見のかぎり三度)も数えれば、もっとも頻繁に映像化の試みられた谷崎作品であるといえよう。
とくに最初の映画化には、原作者の谷崎も、出演者へ演技についての助言を与えるのみならず撮影中のスタジオを訪れるなど、かつて映画製作に携わった自らの夢を託して大いに期待していた。ところが、出来上がったフィルムは小説とは正反対の筋――最終場面で改心したナオミが馬になってその上に譲治が跨る!――に改悪された代物だった。のちに谷崎は「「痴人の愛」は当時の時勢に遠慮して脚本に不自然な歪曲が行はれた」(「女優さんと私」)と不満を漏らしたが、それは脚本(木村恵吾・八田尚之共同執筆)に当時制定されたばかりの映画倫理規定の審査を反映させた結果であったという事実が、佐藤未央子氏の研究によって明らかになった。
本発表では、アダプテーション研究の視点から、未製作の企画も含めた「痴人の愛」の映像化を中心に、挿絵や漫画など幅広く視覚化の展開をたどり、テクスト/イメージの表象をめぐる本質的な差異とストーリーの改変との関係性を論じる。さらに、谷崎生前の映画化について、先行研究ではふれられなかった一九四九年版のもう一つの結末(脚本家・八田尚之による修正前のプロット)の紹介と分析を通して映像表現の規制の問題を再考し、時代の要請する倫理と視覚化に〈適応=翻案(adaptation)〉することのできなかったヒロイン像を映し出してみたい。
なお、報告では決定版『谷崎潤一郎全集』未収録文など新資料も紹介の予定である。


谷崎潤一郎「細雪」論――観光を視座として――

清水智史

谷崎潤一郎「細雪」〔一九四三~一九四八年〕は、戦争にかかわる同時代性を繰り返し問われてきた作品である。「月並」な日常の描出による戦時への抵抗、あるいは、四姉妹の行く末にみられる敗戦の寓意が指摘されるなどした。本発表では、そうした評価を踏まえつつ、異なる角度から同時代性を再検討してみたい。それは、観光の問題である。
作中の観光や行楽については、平安神宮での花見の場面がよく知られるが、その他にも観光地やそれにまつわる場所はしばしば描かれており、雪子が見合いをするオリエンタルホテル、幸子夫妻の富士五湖めぐりなどが挙げられる。これらの描写はいわゆる「有閑マダム」の生活相や阪神間モダニズムの反映と捉えられてきた一方で、同時代状況とも近接する。なぜなら、観光という営みは戦時下において単なる娯楽とはいえない側面を有していたからだ。例えば、高千穂や橿原神宮などへの「聖蹟」観光は皇紀二六〇〇年を記念するかたちで促進され、ナショナリズムを高揚させる手段となっていた。作中にも「二千六百年祭でいろいろの催し」があること、東京の「宿屋なんか何処も超満員」〔下・二十九〕といった様子が記されている。また、植民地への観光も活発になるなど、観光は外地へのまなざしを生成する一端を担いもした。加えて、作中にも描かれる常磐館・蒲郡ホテルや富士ビューホテルは、外貨獲得のための国際観光政策の一環として利用されていたのだ。
そこで、本発表では観光にかんする描写の分析を通し、「月並」による時代への抵抗などとは異なるかたちの、戦時下における作品の同時代性を考察したい。具体的には、洪水で一変した風景に「雄大」「豪壮」だと「見惚れ」た〔中・五〕貞之助のような視線が、観光との関連のなかで出来したことを明らかにし、そうした観光によって生成された視線を有する人物たちがどのような結末を迎えるかを踏まえたうえで、新たな意味づけを提示する。

『鼻』「明るみ」の方へ ――ベルクソンの考察と仏教思想とをめぐって――

市川裕見子

ひと頃、芥川龍之介の短編小説『鼻』は、明るいのか暗いのか、という議論があった。作者の芥川自身が『羅生門』とこの『鼻』について、「なる可く愉快な小説を書きたかった。」とこの作品が明るさ、愉しさを志向するものだ、と表明しているにもかかわらず、のちに作品が暗さを湛えている、という指摘が相次いだことによる。小説『羅生門』を「愉快な小説」とは表現しにくいことも、作者の意図が作品にそのまま実現されているかどうかについて、疑念の出ることに拍車をかけただろう。近年になって、この『鼻』を「明るい小説」として再評価する論も出たが、その議論はなかなか定まらない。
私としては、芥川の師、夏目漱石の「自然其儘の可笑味がおっとり出てゐる」「明るいユーモア小説」との評価にもう一度立ち返り、また執筆当時の芥川が、せっぱつまった出口なしの鬱屈した精神状態の中で、何を求めて、どのような方法論で「愉快な小説」を作成しようとしたのか、そしてこの小説作品中にその志向がどのように編み込まれ、表象されたのか、そしてそれは成功したのか、という事について考えてみたい。そのために私は、芥川の内にあったベルクソンの「命の跳躍」の発想概念と、仏教、特に芥川が幼少から馴染んだ日蓮宗の信仰と、漱石の影響の色濃い「禅」の思想とを補助線として、この作品『鼻』を見ていきたい。結末における主人公禅智内供の心証の変化には、この二つを精神的背景とした「悟達」と「救済」が小説描写の内に暗示されていると思われるからである。今発表では、『鼻』の文章に対して、細かなエクスプリカシォンドテクストを施すことによってそれを炙り出し、小説の「明るさ」についても、作者の志向がどこまで作品に織り込まれたかを見ることによって、一定の答えを出したい。

芥川龍之介「湖南の扇」論――黄愛と黄六一の関連性を手がかりとして――

林悦

「湖南の扇」(一九二六年『中央公論』)は、一九二一年の芥川龍之介の実際の長沙旅行体験をもとにした小説であるが、伏線のような暗示的な表現が現実と合致せず、解釈しにくい面がある。本発表では、小説中の「僕」が長沙に滞在する時期と現実における芥川龍之介が長沙に滞在する時間との違いに着目し、湖南の文化風俗と近代中国歴史上の大事件を検討しつつ、本作と一九二一年から一九二六年にかけて犠牲となった中国共産主義革命者との関係を論じたい。
本作は、視察員の「僕」が旧友譚永年の紹介で土匪黄六一の生涯を知り、黄六一の愛人玉蘭が人血のビスケットを食べた全過程を目撃し、玉蘭と黄六一の情熱から、歴史上において長沙出身の革命者たちを思い出した話を述べている。「僕」が長沙に着いた時間は旧暦四月八日である。その日は「端午の節句」の風俗と関わり、龍舟の訓練を行う前に龍や祭神を招来する日である。楚国民間の巫祭文化を起源とする「端午の節句」の文化習俗と各人物間の心理、言語、行為との関わりから、このエピソードを含む本作に扱われているのが、一週間前に斬首された黄六一の邪気を払う祭式であることについて考察する。
また従来の政治史と関連付けられた研究を踏まえ、本発表では小説中の数字の謎と一九二二年一月の「中国初の工人運動犠牲事件」及び一九二三年六月の「長沙事件」との関わりを分析し、特に、小説における各人物の言語や行為から百姓を救済する「悪行」が多いとして斬首された土匪・黄六一と、第一紗工場の工人の利益を守るために斬首された湖南労工会幹事黄愛との共通性を分析する。さらに、黄愛と仲がいい同郷・田漢の共産主義的な活動や芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫など文豪との交流などの史実から譚永年という人物の原型が田漢である可能性を論じたい。一見分かりにくいとみられる表現の深層に、検閲制度の影響を受けた政治的なイデオロギーが隠されているのではないかという点を明らかにしたい。


東歌と〈琉球〉が重なり合うとき――折口信夫の万葉集注釈と詩歌に現れる沖縄像――

スポ―レ・マーシャ

「東歌疏」は『万葉集総釈』(一九三六年刊)で折口信夫が巻十四を担当した分を、抜き出した私家版の注釈書である。そこで折口は注釈のみならず「鑑賞」というカテゴリーを追加し、批評ないし解釈の性質をもつ文章を残した。また奇妙なことに沖縄採訪した際の写真を「概説」のあとに掲載している。この『東歌疏』は、一九一六年から三六年にかけての折口の東歌に対する基本的見解が全体にわたって示され、内容に関しては、歌の意義と成立だけでなく、地理や事物の民俗学的な考証においても多くの創見があると評されてきた。また、注釈は彼の創作態度とも関連づけられ、「鑑賞」という批評的な注釈は、折口が口訳と同様に重要視し、自覚的な表現方法の一つとされてきた。このように豊かな論点を内包している『東歌疏』だが、本発表では、注目されてこなかった写真と「鑑賞」に着眼し、折口の創作性と東歌観の根底にある思想を探求する。折口は「東歌疏」の「概説」で万葉時代と当時の沖縄を結びつけて論じており、また同時期の創作において、沖縄の信仰や民俗に焦点を当て、「古代」を喚起している。そのため本発表では、沖縄のリアルな時空間を切り取るはずの写真というメディアが、むしろ民間伝承・伝説によって維持される〈琉球〉の古層的空間との連続性を補足するケースを、折口の沖縄を論じる際の方法論として捉えてみたい。そのため二一年の短歌一連「をとめの島―琉球―」と、三六年の長歌二作「古びとの島」と「干瀬の浪」を分析し、東歌論の根底にある思想との関連性を探究する。これらの作品は、一九二一年から三六年までの折口の沖縄像の表現として位置づけることができる。この期間中、折口は三度の沖縄訪問を経て、万葉歌について熟考し、また旅の経験を詩歌に反映させ、様々な形式を用いて自らの詩歌を形成していった。そこで本発表では、この短歌・詩と注釈の相互作用を視野に入れ、その意義を考察する。


宮沢賢治作品における知覚表現の特徴

牧千夏

本発表は、宮沢賢治作品の知覚表現の特徴を考察する。本発表では「知覚」を、感覚器官を通じて外界の物事を知るという意味で用いており、宮沢賢治作品で、登場人物や語り手がある存在を感じとることを作品に描く際、どのような表現が用いられているかという点を考察する。具体的には、宮沢賢治が「向こう」「うしろ」「わからない」という語の使用に特徴があると仮説を立てており、見えない範囲にある理解不能な存在を積極的に知覚する表現が多用されていると考えている。
このことを考察するにあたり、次の2つの方法をとりたい。ひとつは、萩原朔太郎、草野心平などの同時代の作家の表現との比較である。宮沢の特徴が文学ジャンルや時代によるものでないことを示すためである。もうひとつは、自然言語処理という方法である。自然言語処理とは、人が使う言語(自然言語)をコンピューターによって分析する技術である。同時代作家の作品と比較するにあたり大量のテキストを扱うため、コンピューターを利用した自然言語処理が有効だと考えた。この処理によって、各作品のテキストを品詞ごとに分解し、各語の使用頻度や使われる文脈などを調べる。そうして「向こう」「うしろ」「わからない」といった語が、宮沢賢治の作品でどのくらいの頻度で、どのような文脈で用いられているかを明らかにする。最終的には、以上の分析で得られた知覚表現の特徴をもとに「青森挽歌」という詩の読解に取り組みたい。この詩は亡妹を悼む詩であるが、見えない範囲にある理解不能な存在を知覚する表現が多用されている。「青森挽歌」は、そうした宮沢賢治の知覚表現が傑出した詩であり、そうした見えない理解不能な存在との議論のなかで妹を追悼するありさまを表現した詩であることを指摘したい。


宇野浩二「蔵の中」と落語

金井雅弥

宇野浩二「蔵の中」(1919)は宇野の文壇デビュー作として知られている。本作の特徴的な語りは、鈴木貞美「〈研究ノート〉日本の小説話法の特殊性をめぐって」(1991)など、言ったそばからその語り自体を対象化する現象が見られることから、落語的と形容されることがあった。しかし、本作が同時代ではなく後に落語的だと見なされるようになっただけなのか、それとも当時から結び付けて捉えられていたのかということについては、これまで曖昧なまま語られてきた。実は、落語という言葉は菊池寛や正宗白鳥、久米正雄といった多くの評家が本作を評するときに引き合いに出したものであった。さらに、本作の執筆以後、宇野の作品は「落語小説」と言われ、宇野自身は、「落語小説家」と揶揄されていくようになる。当時の読者や宇野にとって落語的とはどのような意味であったのだろうか。また、本作の語りのどのような特徴が落語的だと捉えられたのだろうか。
特に重要なのが大阪落語である。なぜならば、宇野自身は本作の標語として大阪落語という言葉にこだわっていたからである。宇野は大阪落語をどのようなものとして捉えていたのであろうか。
本発表ではこの点を検討する上で、当時活躍していた大阪出身の落語家・初代桂小南の速記本を手掛かりとしたい。宇野は本作のモデルとなった近松秋江について「近松秋江論」(1919)を発表しており、その中であげられているのが初代桂小南だったからである。桂小南は宇野が度々、大阪の落語家としてあげる人物でもあった。また、「近松秋江論」は、「蔵の中」を表題作とした初収単行本『蔵の中』(1919)の序文として付されたものでもあり、明らかに本作と密接な関わりを持つテクストである。このことを踏まえて、なぜ宇野が本作を単に落語ではなく大阪落語と見なしていたのかを考察したい。

織田作之助「清楚」論――草稿の分析を中心に――

勝倉明以

織田作之助「清楚」のテクストは大きく分けて4種類ある。1つ目は大阪府立中之島図書館・織田文庫所蔵の織田作之助「清楚」の筋書である織田文庫―草稿136であり、2つ目は清楚の草稿である織田文庫―草稿46と織田文庫―草稿Ⅱ―90である。そして、3つ目は初出の「大阪新聞」に掲載されたテクストであり、4つ目は単行本化するにあたって改稿がなされ、全集にも収録されている最終稿とされているテクストである。斎藤理生「第一章 銃後の大阪——「大阪新聞」と『清楚』」において、筋書の存在については触れられているものの、あくまでも存在への言及に留まっており、分析はなされていない。また、草稿の内容については殆ど言及されていない。
発表者は、既に資料紹介として「清楚」草稿2点を論文化済みである。そのため、この成果を活かして、これまで詳細な分析が行われて来なかった「清楚」筋書と草稿を主な分析対象にしつつ、4つのテクストを同価値のものとして扱い、生成論的な視点から再検討した。その結果、(具体的な詳細については発表内で述べるが)筋書と他の3つのテクストとでは、主人公の名前からその行動に至るまで全くと言っていいほど異なるということが分かった。つまり、初出発表以前に構想していた筋書きからは大きく改変されて、連載されたといえる。このことは、織田が代役として急遽連載することになったという時間的な要因も考えられる。とはいえ、新聞小説の面白さを「なによりも明るく楽しい」こととし、それを戦後まで追及し続けた織田の姿を考えると、上記のような改変からは織田文学における「面白さ」を明らかにするためのものであったといえるだろう。戦中に発表された本作は、純文学を追求しようとした戦前から、流行作家として大衆を楽しませる中間小説を戦後に発表し続けた織田作之助という作家の転換期を、その改稿過程から見ることが出来るテクストだといえるだろう。


動物文学再考――人間が描く”動物”とは何か――

石井要

本発表では、戦前から動物文学というジャンルの形成を主導した雑誌『動物文学』の主幹平岩米吉と動物行動学者小野嘉明との間で交わされた論争を取り上げ、平岩の動物文学論が抱える問題を浮き彫りにし、『動物文学』によるジャンル規定とは異なる‟動物を主題とする文学”の評価軸を再考したい。
平岩米吉は「動物小説に就いて」(『動物文学』一九三五・八)をはじめとした諸論で、動物文学は動物に対する愛情と理解を基盤として彼らとの精神の交感を描かなければならないと主張した。
動物行動学を専門とする小野嘉明は「行動学徒の寝言(上)」(『東京朝日新聞』朝刊、一九三五・七・一三)等で、『動物文学』誌面の擬人主義(人に擬えて動物の心理・行動を捉える立場)を批判した。動物の精神を想定しない行動主義の立場から、『動物文学』が人間の道徳的な規範に動物を隷属させていると論難したのである。
平岩は「動物文学随想(二)」(『動物文学』一九三七・二)で小野の議論を否定し、科学的な理論に基づく動物理解ではなく、動物と直接触れ合う経験の重要性を説き、誌面にもその考えを反映させた。そのためか、『動物文学』誌上では擬人主義の妥当性は議論されなかった。
同時代には、動物を主題としながらも、上述の価値基準では評価されない作品がある。一例として川端康成「禽獣」(『改造』一九三三・七)を取り上げる。動物文学に科学が必要だと主張した川端は動物を主題とする文章を多く書いたが、『動物文学』に掲載作品はない。
「禽獣」では、仲睦まじい人間の夫婦に擬えて菊戴の番を愛好する主人公が、美を追求する欲望から動物たちの生を壊す様子が批判的に描かれる。「禽獣」は人間の枠組みから人間以外の存在を捉えることの妥当性を問い直す可能性に開かれているのである。
以上の考察を通して、人間を人間以外の生物から区分けする発想を転覆させる “動物文学”の様態を浮き彫りにしたい。


八〇年代の日本文学と〈三島由紀夫〉――島田雅彦『僕は模造人間』を中心に――

Cima Igor

日本文学における七〇年代後半から八〇年代までの時期は過渡期だった。戦後生まれの新人たちは続々とデビューし、新しい作風を導入したのみではなく、日本の近代や戦後に対して新しい認識を表した。メタフィクション、パロディ、パスティーシュなどのようなポストモダン文学を代表する手法を用いた小説が多く現れた。その中に近代文学を形成してきた作家や作品を相対的、脱構築的に扱う作品も数多くあり、近代文学の相対化が日本文学におけるポストモダン的潮流の一つの表れだと考えられる。
三島由紀夫もその対象となり、一九七〇年以降、とくにその自決は文学をはじめ他のメディアでも盛んに描かれ、三島は日本の戦後を象徴する人物の一人となると同時に、現在でも賛否両論を生む激しい議論の的となった。大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(一九七一年)、村上春樹『羊をめぐる冒険』(一九八二年)、大江健三郎『新しい人よ目覚めよ』(一九八三年)、島田雅彦『僕は模造人間』(一九八六年)、倉橋由美子『ポポイ』(一九八七年)などにおいて、多様な三島像が現れている。作家たちは三島の象徴性を利用して、日本の近代と戦後と当時の状況をめぐる新しい言説を築いた。全共闘世代である村上春樹の『羊をめぐる冒険』における否定的な描写から、島田雅彦の『僕は模造人間』に見られる滑稽なパロディまで、この時代の文学作品において三島は批判や嘲笑の対象となった例も少なくない。
『僕は模造人間』は、亜久間一人(あくまかずひと)()(あくまかずひと)という主人公が一人称で語る風変わりな青春小説である。三島を滑稽に描く場面がある上、一人称で語る夢想家の語り手の社会との格闘や性的な成長の物語を『仮面の告白』(一九四八年)のパロディとしても読めるし、近代文学の伝統的なジャンル、私小説のパロティとしても読める。本発表では、『僕は模造人間』における三島のパロディ的な表象を分析し、それを他の八〇年代の作品に見られる三島像と比較した上、八〇年代の多様な三島由紀夫の表象には上記の過渡期がどのように反映されているかということについて考えたい。