春季大会パネル発表要旨
九〇年前後、未了の日本文学――冷戦体制とグローバリズムのはざまで
亀有碧、西岡宇行、松田樹、峰尾俊彦、山西将矢、今井亮一
本パネルでは、一九九〇年前後の日本文学を再検討する。九〇年前後には、冷戦体制が終結に向かい、自由民主主義の勝利が寿がれた。一方で、国際秩序が不安定化し、現在に至るまで吹き荒れている民族問題や宗教問題などが露呈し始めた時期でもある。九〇年前後の日本文学には、冷戦体制とグローバリズムのはざまに置かれた文学者らの苦闘が刻まれている。その未了の課題を読み解くことを通じて、グローバル資本主義が拡大を続ける一方で、大国同士のイデオロギー闘争に世界が再度包まれようとしている今日の日本文学の位置を検討し直したい。
中上健次は、八四年から九二年にかけて未完の長篇『異族』を執筆している。従来の中上作品では被差別部落(路地)が主要な舞台とされてきたが、本作では路地の若者が、満州国再建を画策する右翼の指示のもと、在日朝鮮人やアイヌら他のマイノリティとの連帯を試みる。本作の荒唐無稽というべき設定は、これまで研究者を悩ませ、評価をためらわせてきた。しかし、その国際政治と絡み合う錯綜した内容にこそ、世界秩序の再編に際した文学者が、今日においてはグローバリズムとそれにたいする反動とみなされるものに託した別様の可能性を読み取ることができるのではないか。
そして、同様の混乱は、戦後文学者にも共有されていた。『異族』と同じく八四年、安部公房は七年ぶりの長篇『方舟さくら丸』を発表する。本作に先立ち、八二年には中野孝次をはじめとする戦後文学者が呼びかけ人となり、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を発表し大きな話題を呼んでいた。声明に参加しなかった安部は『方舟さくら丸』にて核戦争という戦後的な題材を採用しつつも、それを「戦争ごっこ」として相対化している。安部は冷戦末期の国際政治からは距離を取りながらも、「国家内国家」小説である『方舟さくら丸』を通じて自らの作品世界の中でグローバリズムの到来を捉えようとしていた。
一方、声明に加わった大江健三郎は、九〇年代半ば以降、開国以来の文学者による近代化への努力と、その不徹底に立ち戻り、如上の状況下における日本文学を語るようになっていく。そうした言論の準備期と見られる九〇年前後の、東西の宗教や日本浪曼派の詩人・伊東静雄の詩に対する再解釈が組み込まれた作品群には、一見平明なその種の言論からは捨象される、内発的なものと外来のものとの間で創作という行為を再定位しようとする、錯雑とした試みを読み取ることができる。
従来の研究では、こうした動向について個々の作家・作品について論じられることはあれ、その混迷した状況に総体的な分析を加えたものは見当たらない。近年では、『〈戦後文学〉の現在形』(二〇二〇)や『対抗文化史』(二〇二一)などの著作に代表されるように、一国内の枠組みに閉じられてきた従来の研究の弊を批判し、戦後文学を冷戦文化の産物として捉え直す試みがなされている。だが、冷戦体制のある種安定的な秩序が崩壊へと向かっていった九〇年前後については、検討が未だ手薄なのが実情と言えよう。
こうした問題意識の下、本パネルでは、中上、安部、大江という三人の文学者へと照準する。具体的には、以下の通りである。
松田の発表では、中上の一連の朝鮮表象を遡りながら『異族』を検討し直すことで、路地からアジアへと段階的に作品世界を拡大していったのではなく、韓国に架橋する形で構築された路地にはあらかじめ西側のイデオロギーが国際社会を覆ってゆくことに対する危機感が埋め込まれていたことを明らかにする。亀有は、八〇年代以降の中上作品に増加する売買春を含む性産業の表象に着眼し、世界規模の性の商品化が進行するなかで、自己の身体にたいする所有/帰属意識の間で揺らぐ性産業従事者たちの姿が書きこまれていることを見出し分析する。
山西は、『方舟さくら丸』における「女」の表象を分析する。男たちの「戦争ごっこ」及び「シミュレーション・ゲームの時代」と表現される消費社会を描いた本作のなかで、ただ一人の女性乗組員である「女」が果たす役割を明らかにする。
峰尾は、大江と中上の現代思想への参照を論じる。この時期の中上は「南」というキーワードを使用して自らの文学論を構想していたが、それは大江と共通の参照項によってなされていた。この同じ参照項のなかで二人の作家がいかなる文学を志向したのか、その同一性と差異を論じる。西岡は、九〇年代前半の大江健三郎作品にみられる、伊東静雄の詩「鶯」への参照に着目し、大江のこの時期の関心と、グローバル化状況における、エスノナショナリズムの高揚との接点を探る。
ディスカッサントの今井は比較文学の観点から、グローバル資本主義の「外」を思考する道筋を彼ら日本文学者たちに見出す。