秋季大会個人発表要旨
東京を「裏返す」小説――案内記としての山田美妙「武蔵野」
伊東弘樹
山田美妙の「武蔵野」(『読売新聞』、一八八七・一一〜一二)は、南北朝時代の足利勢と新田勢の合戦を題材にした時代小説である。大橋崇行『言語と思想の言説』(笠間書院、二〇一七・一〇)によれば、小説は明治の時点から語られ、歴史学・修辞学などの「知」が援用されていた。実際、小説の「北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台」は、東京各地の地名を引用しながら描かれている。
それではなぜ、読者と空間認識を共有しながらも、舞台をいにしえの〈武蔵野〉に求めたのだろうか。同時代に目を移せば、行政区画の変遷や国会開設などから転換期を迎えていた東京は、立身出世を体現する青年主人公と共に、近代的かつ理想的に描かれる傾向にあった。このような状況下で、美妙は再編されつつある歌枕・名所を案内することで、東京像を「裏返し」(吉見俊哉『東京裏返し』集英社、二〇二一・三)、歴史の復権を目指したのではないだろうか。以上の作業仮説のもと、本発表では、案内記や小説を中心とした同時代の東京表象との接点を見つめ、小説内の〈武蔵野〉が果たす役割と、設定の意図を分析することが本発表の目的である。
例えばこの観点から、美妙が〈武蔵野〉を描く際、中心地を九段周辺に設定した意図も類推できるだろう。当時の九段周辺は、新名所として宮城及び国家の機関施設が聳え立つ場として認識されており、末広鉄腸『雪中梅』(博文堂、一八八六・八、一一)もそこに未来像を重ねていたが、あえて古戦場とすることで従来とは異なる東京像を創り出し、時代小説の舞台として再発見しようとしたと考えられる。
また、その際に〈武蔵野〉と〈山里〉という舞台が、「東京」/「故郷」という構図から語られている様相も浮かび上がるだろう。地名と共に語られる「噂」から出立し、非業の死を迎える武士の物語が、当時の書生たちと重なる時、「武蔵野」は向日的な東京像への風刺とも読み取れるのである。
広津柳浪「小舟嵐」の位置――社会の罪との関係をめぐって――
鶴田奈月
本発表は、広津柳浪の「小舟嵐」を、社会の罪という同時代思想との関連において検討し、明治中期における柳浪の立ち位置と本思想の意義とを相互に探る試みである。
「小舟嵐」は明治二十三年十一月から翌年十月にかけて『都の花』で断続的に連載され、のち『明治小説文庫』に再録された。横浜の未決監獄にいる貧しい小作人の女性が、金貸し殺害という自らが犯した罪を弁護人の前で語る、一人称回想形式の小説であり、農民文学の先駆作として主に評価されてきた。当時一定の好評を博した様子は散見するものの、後年のいわゆる悲惨小説ほどの評判は得られず、現在では埋もれた作品と言えよう。
一方、社会の罪とは、明治二十四年春に青年文学会での演説と『国民之友』への寄稿を通して、森田思軒が提唱したとされる文学思想である。個人が罪を犯さざるをえない状況を作り出した社会にも罪があるという、ユゴーを発想源とした議論であり、民友社以外にも反響を呼んだ。小説の題材を社会に拡げたとして、柳田泉が悲惨深刻小説等への影響を指摘しており、近年では娼婦小説の文脈において再注目されたが、未だ明らかになっていない点も多い。
広津柳浪と社会の罪とは管見の限りこれまで結びつけられてこなかったが、ともに明治三十年前後の小説界において重要な役割を果たした上に、明治二十九年の「社会小説出版予告」に柳浪が名を連ねるなど一応の接点が見出せる。そこで本発表では、あえて明治二十三、四年頃の、悲惨小説や社会小説の議論が萌芽する前の段階から検討し直すことで、当時みられた一過性の文学的事象について再考するための糸口を模索したい。
そのためまず発表の前半では作品の分析を行い、語りにあらわれる罪の意識を端緒に再解釈を試みる。後半にて社会の罪とは何であったかを問い直した上で、作品との親和性を検討し、当時の文学空間における柳浪の位置と思想の意義を探りたい。
日露戦後の復古的な趣味における文武性――「風流」と「元禄趣味」を中心に
許可
本発表では、日露戦後の1905-1915の十年間のメディアを対象とし、復古的な趣味に関わる言説が内包した「文」と「武」の構造を検討する。日清・日露戦争が終わった後も、「尚武」の精神はなお社会の諸領域に広がっていたが、同時に、国家が戦後経営の道を歩み出し非常時から常時に移行していくにつれて、人々の関心は「義勇奉公」から経済的利益を重視する方向へ変わっていった。こうした流れを背景に、日清戦争期に台頭した「文武両道」論は、「文」と「武」という二つの時代の要請が互いに拮抗する局面へと移行していく。本論では、「趣味」の分野に注目し、実業家の風流及び元禄趣味をめぐる二つの言説群が生み出されたことを明らかにする。
従来、風流と元禄趣味は主に文芸思想や消費文化、及び服飾美学等の視点で研究されてきた。しかし、それらを思想と風俗の交差点として捉え直すことで、これまでの構図では見えない文武の問題性が浮上する。
発表の前半では、実業家の風流に関する議論を概観する。1910年前後において、実業家に武士の姿を重ねる思考のもと、実業を営む者にしても文雅風流の茶の湯を、または武張った風流の刀剣趣味をたしなむべきだといった主張がなされている。対抗的といえるそれらの論を検討することで、実業界と結び付けられた「風流」の思考にある「文」と「武」の構造を明らかにする。
一方、時を同じくして、「文」と「武」の要請に同時に応えた元禄趣味がさまざまな分野でブームを起こした。発表の後半では、元禄趣味に対する有識者の評に焦点を当てる。例えば、「淫靡堕落」とした批判がある一方、山路愛山は「元禄武士」を「風雅の中に勇気を包」む存在だとし、積極的に受け入れた。なぜ実学を重視する民友社系の愛山と徳富蘇峰が、華美風流の「元禄」を評価し、さらにその言説の構築に加わったのか。その理由を探ることで、彼らの歴史認識が過渡期社会の趣味の問題との関連を明示する。
変奏する「戯作者」的態度――永井荷風「毎月見聞録」における「文学」の問い直し――
児島春奈
本発表では、これまで「文学」的評価の埒外に置かれてきた「毎月見聞録」と、「文学」的評価が高く教科書にも掲載されてきた『断腸亭日乗』を題材に、どのような特徴を持つ作品が「文学」として評価されてきたのか考察する。また、消費社会の原理を否定し、新たな「文明」を生成する「純然たる文学雑誌」を創刊しようとした荷風が(「発刊の辞」『文明』一九一六・四)、『文明』に掲載された「毎月見聞録」では、格調高い漢文調の形式で世俗的な記事を掲載した理由を、「戯作者」(「花火」『改造』一九一九・一二)的態度に求める。
先行研究において荷風の大正期は、〈江戸趣味〉の時代とされてきた。しかし、「毎月見聞録」と同時期に執筆された『断腸亭日乗』や、「西遊日誌抄」(『文明』一九一七・四~七、九~一〇)には、フランスへの思いが記されている。また、「毎月見聞録」には、江戸芸術への趣向が消費社会の原理に吸収されていくような同時代の流行が批評的に描かれている。したがって「毎月見聞録」執筆時の荷風は、「帰朝者」から「戯作者」への移行期であったと言えるだろう。このような特徴を持つ「毎月見聞録」において、「帰朝者」の持つ特権性を否定し、消費社会の根底にある優劣の意識を問い直す視点を民衆にも求めた荷風の「戯作者」的態度は、従来捉えられていたよりも現実社会と地続きの抵抗の姿勢であったと考えられる。以上の考察を通して、「文学」的評価の埒外に置かれてきた「毎月見聞録」が、文体と内容の齟齬によって「文学」に含まれた特権性を問い直していることを指摘し、荷風作品の中で変奏する「戯作者」的態度が、教育現場をはじめとする今日の社会にも有効な視点を提示することを明らかにする。
宇野浩二『枯木のある風景』における芸術家の死――絵画論から文学論への転換
近藤史織
芸術家は一人の芸術家の死をいかに捉えたのか。宇野浩二「枯木のある風景」(「改造」一九三三年一月)において、洋画家・小出楢重をモデルとした古泉圭造の芸術は、視点人物である島木新吉を含む三人の画家によって様々に論じられた。末尾にて、古泉の遺作『枯木のある風景』と『裸婦写生図』を前にした島木は、前者にも「異常な敬意」を払いながら、後者に対し「より多くの敬意をはらつた」。
島木の「敬意」について、先行論では『裸婦写生図』の写実的構図への着目から論じられる傾向があった。しかし、そこに見出されるのは小出へ捧げる宇野の敬意であり、作中の島木の「敬意」が十分に論じられたとは言い難い。末尾の解釈を更新するにあたり、本発表では、鍋井克之『新しき風景画の進路』(文啓社書房、一九三〇年)を新たな素材として提示する。島木は鍋井をモデルに描かれており、島木作『夢殿』に纏わる描写には本書からの直接的な引用が確認される。
本書の中で、鍋井は油絵における「本格描写」を文学の場合に置き換えて論じた。素材に確認される絵画と文学の重なりは、本作の絵画論もまた文学論と響き合うことを示唆する。未完の「自画像」である『裸婦写生図』は、作中の言葉の如く「文学的の言葉でいふ」ならば私小説と重なり合う。島木の「敬意」には『裸婦写生図』の絵画上の特性を捉えるに留まらず、文学論への転換から、同時代の私小説を巡る問題の投影を読み取るべきではないか。更に、「『鬼気人にせまる』感じ」と称された古泉の死は、同年の私小説「湯河原三界」(「文藝春秋」一九三三年九―一〇月)に「柳」として描かれた芥川龍之介の死を思わせる。本作に芥川の死を読み込むとき、そこには「湯河原三界」のテーマでもあった芸術至上主義的な在り方への懐疑を読み取ることができるのではないか。本発表では、タイトルと異なる作品に島木の注目が向けられる理由を文学論への転換から明らかにする。
相剋する欲望――三島由紀夫『仮面の告白』論――
福田涼
先行論が夙に指摘しているとおり、『仮面の告白』(一九四九)の「私」を特徴づける要素の一つとして、「私は私でありたくない」(第三章) という自己否定の欲望が挙げられる。ただし本作について考察する上では、従来ほとんど看過されてきた「私」の「自我のスパルタ式訓練法の欲求」(第二章)にも等しく注目する必要があろう。「私」は自己否定の欲望に抗いつつ、「仮借ない分析」(第三章)のメスを己れに突き立て、自己を客体化することで生成される別様の自己を、社会の裡に定位せんと目論むのである。
本発表では、こうした書く「私」を考察の視座に据え、如上の欲望の相剋が組織する表現の特質を明らかにする。杉山欣也(二〇一五)は、本作における「古今の文学作品や絵画の引用」が「読者の知的探究心をくすぐる装置」として機能し、「多義性を与える効果」を生むと指摘するが、本発表では、これを本作の表現構造に内在する問題として捉え直したい。具体的には、自らの半生を「小説風」(第二章)に叙述する「私」が、なぜスタンダール『アルマンス』(一八二七)等からの夥しい引用を必要としたのかを考察し、「前半と後半とが、まるで異質」(神西淸、一九五二)とも評された本作において、書く「私」の欲望が、自己の《文学化》という点で一貫していることを論証する。
また「ソドムの男」(第四章)を自認する「私」の叙述は、園子という存在を「杓子定規に決めることが出来ない」、あるいは「ヒルシュフェルトの学説」等に基づく「科学的な了解」(第四章)では片附かない「背理」(第一章)の象徴として前景化せずにおかない。この点について本発表では、朴秀浄(二〇一九)らによる三島の「性科学」受容に関する研究成果を踏まえつつも、「明らかな矛盾はわきまえながら、なお、そのどちらも捨てかね」(第一章)ている「私」における欲望の相剋とその記述の様相を、テクストの精読を通じて見定める。
坂口安吾と花森安治の「教祖」批判
薛昇勳
戦中政府によって統制されていた前衛芸術と新宗教は戦後各種規制の緩和、自由と解放の社会的雰囲気の中で復活を遂げた。その中、坂口安吾は1950年の「教祖展覧会」で前衛芸術を新宗教の「教祖」に例えて批判する一方、花森安治のデザインを高く評価した。この評価は花森が1948年安吾の単行本『教祖の文学』の装釘を担当したことに起因するが、花森もまた1953年安吾の「教祖」論を踏まえたと考えられる随筆「教祖藝術」を発表し、前衛芸術を筆頭として宗教のごとく「流儀」を信奉した結果「暮し」から離れた芸術を批判した。安吾と花森は当時の芸術界、特に戦後その勢いを振るっていた前衛芸術から「教祖」的な性格を見出し、批判の対象としていたのである。本発表はそのような共通点に注目し、安吾の「教祖展覧会」と花森の「教祖藝術」を中心に両者の「教祖」批判を分析して、そこから導き出せる芸術観を比較検討することを目的とする。研究方法としては、まず時代背景となる戦後の新宗教と前衛芸術の特徴を概観する。両者は既存の芸術・宗教から距離を置いて独自の芸術観、教理など新しい価値体系の構築した共通点を持つ。このような分析をもとに、続いては「教祖展覧会」と「教祖藝術」で安吾と花森が前衛芸術を批判する論理を取り上げて両者の「教祖」表象を捉える。前衛芸術は同じ思想と知識を共有しなければ享受できない閉鎖的な体系であるため、一般大衆を含め体系の外にいるものは排除される。この特徴は独自の教理を掲げた新宗教の排他性・閉鎖性と似ており、安吾と花森もその点を挙げて前衛芸術を「教祖」的だと批判したのである。しかし、両者は「教祖」的な芸術を批判することにとどまらず各々が求めた芸術を示していたが、その実践として安吾は様々なジャンルの大衆文学を、花森は装釘やカットイラストなどの応用芸術を創作した。最後にはその相違の原因となる両者の芸術観の比較検討を試みる。
「アイヌ文学」と「給与地」闘争――「階級的組織化」をめぐる向井豊昭・石井清治・原田了介の視点から
岡和田晃
本発表では、アイヌ民族と和人の関係史的な視点を採用することで、北海道文学史・日本近代文学史と、アイヌ民族の活動史・労働運動史が交錯する地平に生じた死角を逆照射することを目指す。「アイヌ文学」の枠組みを拡張させつつ、歴史的な反省の視座を打ち出すことで、脱政治化させることなく、パターナリズムの弊害を乗り越えようと試みる。
この際に着目するのが、第二次世界大戦後間もない時代からの、「旧土人給与地」をめぐるアイヌの闘争における連帯のあり方だ。1950年代後半からの観光ブーム期、北海道にはヨーロッパ的な「異郷」のイメージが投影され、文学においてもアイヌはほぼ関心の埒外にあった。アイヌは「語り」の主体性を剥奪され、社会活動は停滞状況にあったとみなされている。
この時代、国が地方改善整備事業の応用としてのアイヌ政策を推進していた状況下において、貝沢正(1912~1992)らアイヌ民族は、むしろ積極的に「被差別部落民」とコミニュケーションし、突破をはかった。架け橋となったのは北海道で勤医協・民医連運動に関わった石井清治(1928~95)で、先行世代の浦河町議会議員・原田了介(1906~81)とともに大狩部旧土人給与地返還闘争を戦った経験を有していた。彼らは日本共産党員でもあったが、同党が綱領にアイヌ政策を盛り込んだのは1972年であり、党中央からほぼ関心を向けられないまま闘争を継続せざるをえなかった。
本発表では、彼らの回想的記述の文脈を論じるとともに、石井が勤務した厚賀診療所――武田泰淳『森と湖のまつり』のモデルのひとつとも言われる――がどのように表象されてきたかを手がかりにもする。六全協以降の共産党とアイヌ、教育制度をめぐる複雑な事情を同時代に小説化した向井豊昭(1933~2008)の「チカパシ祭り」も参照することで、彼らの目指した「階級的組織化」の実相を探り、レイシャル・キャピタリズムの制度的固着を食い止める批評的な可能性を模索する。
安部公房とヌーヴォー・ロマン――『燃えつきた地図』を中心に
片野智子
本発表では、『燃えつきた地図』(1967年)を中心とした安部公房の作品と、アラン・ロブ=グリエやミシェル・ビュトールといったヌーヴォー・ロマンと呼ばれる作家達の作品との関係性を探ることで、安部がいかにして彼らの手法を取り込みつつ、都市の中で生きる人間を描こうとしたのかを考察する。
『燃えつきた地図』は、失踪者の「彼」を追いかけていた探偵の「ぼく」が、「彼」を追跡する過程で自らも失踪者になってしまうという物語だが、追う者が追われる者になることで自らの同一性や連続性を見失っていくという展開は、ロブ=グリエの『消しゴム』(1953年)にも見出せるものだ。一方で『燃えつきた地図』では、探偵の「ぼく」は書くことを通して自らの同一性や連続性を保とうとするのだが、まさにその書くことによって過去の自分と現在の自分の亀裂が顕わになる。こうした自己を書くことの困難は、ビュトールの『時間割』(1957年)でも描かれている。
こうした共通点は決して偶然のものではない。たとえば、安部はビュトールとの対談でヌーヴォー・ロマンの作家たちが「探偵小説」の形式をなぞりつつも、「空間と時間の関数」を変形させることで、これまでとは異なる世界の描き方をしていることに興味を示している(「ぼくたちの現代文学」1967年)。そこで本発表では、こうした安部の発言も参考にしつつ、作品の詳細な読解を通して、安部が彼らの手法を取り入れることで、いかに時間と空間の関係性や、その中で生きる自己のありようを捉えようとしていたのかを分析する。そこには安部が『砂の女』以降一貫して追いかけ続けた《都市と人間》というテーマが関わってくるだろう。その上で、記憶喪失になった「ぼく」が都市へと再び歩き出すという『燃えつきた地図』のラストに注目し、そこに『消しゴム』や『時間割』ともまた異なる、都市という空間における新たな自己の可能性が描かれていることをも提示したい。