秋季大会特集 日本近代文学における東アジア表象――「事件」と文学の間――

【特集の趣旨】

日本近代文学に現れた東アジアをめぐるさまざまな表象と想像は、当時の越境的な状況の中で時代と歴史とに関する文学者たちの多様な認識を示している。それをあえて「事件と文学の間」で追究することで、多様で流動的な東アジア表象に具体的な意味を提示できよう。
中国の王朝を中心とした朝貢体制が崩壊した近代において、西洋の衝撃を受けた日本と東アジア諸国は、新しい秩序を模索するなかで、東アジアにおける自身の位置づけを行った。激動する明治・大正という歴史的な転換期において、日本人の時代感覚に衝撃を与えたものとして、日清・日露戦争、第一次世界大戦など国際関係上の大きな紛争もさることながら、時代を刻む出来事、すなわち数々の「事件」も挙げなければなるまい。例えば、1872年の「マリア・ルス号事件」は日中関係を大きく転換させるきっかけとして記憶されている。また「李鴻章狙撃事件」(1895年)、「伊藤博文暗殺事件」(1909年)や関東大震災時に発生した「朝鮮人虐殺事件」(1923年)などは東アジア三カ国の関係に大きな影を落とした。このような動乱の時代を語る黒川創氏の『暗殺者たち』(2013年)が示しているように、多数の「事件」が、政治や社会のレベルに止まらず、文学者の時代認識と文学的創造力を強く刺激したことは容易に想像できる。
明治・大正期を探ると、日本膨張論を唱えた徳富蘇峰、「満韓ところどころ」を書いた夏目漱石、従軍記者として戦時中国に赴いた正岡子規と国木田独歩、日露戦争の従軍記者になった田山花袋、岡本綺堂や半井桃水などは、「事件」を文学に投影し、国家と個人、日本と東アジア、日本と世界をみつめ、多様なメディアに作品を残した。一方、「歴史的な事件」と言わずとも、文学者の目には重大な「事件」・出来事として映る事象も数多く発生した。国境を超えた「知」の交流も文学創作上の「事件」と捉えるならば、芥川龍之介の『支那遊記』、谷崎潤一郎の「蘇州紀行」や「上海見聞録」、佐藤春夫の『南方紀行』などが、日本の作家のアジア体験と認識を示している。歴史書に書かれた「事件」と、文学者の目に映った「事件」との落差と関連を吟味し、明治・大正期の日本の文学者たちがそれらを通して時代を把握、表象、記録した実態を検証することの意味は大きい。また、そうした文章を通して、近代史上の日本人が東アジアを想像し、認識した眼差しを再確認することで、混沌とした東アジアの現状に生きるわれわれにも何らかの発見が得られることが期待できよう。
上記の問題を問うことは、近代日本と東アジアの多様な関係を多角的・多時空的に捉え、それをめぐる理解と可能性を文学的に再確認する作業である。日本と東アジア世界との関係を、文学者の体験と想像、政治体制と国際秩序、移動と知的越境などにおいて再発見し、さらに日本近代文学と東アジア世界のこれからを展望したい。

運営委員会


【基調講演要旨】

極東アジアに共有される「近代文学」誕生のプロセス

黒川創

世界のどこにあっても、口承のことばと書きことばの合流が、「近代文学」の発端をなしてきた。
一九世紀前半、ロシアの詩人プーシキンによって綴られた諸作品は、やがて、その社会の近代的な書きことば、正書法の土台をなすものとなっていく。ドイツのグリム兄弟による民話の採録や『ドイツ語辞典』編纂の試み、あるいは、セルビアのヴーク・カラジッチによる伝説や民衆詩の採録が、それらの言語ににもとづく標準的な記述法の礎をなしていくのと同様に。話しことばに基礎を置く文法の把握は、世界各地の源から発して、「近代文学」総体の大きなうねりを形づくる。
二〇世紀初頭、極東アジアの都市・東京では、夏目漱石が、非人称、言文一致、緻密な内面描写を伴う先駆的な小説を、新聞紙上で次つぎに連載する。日露戦争終結(一九〇五年)後、韓国併合(一九一〇年)へと向かっていく時代である。
当時、東京には、一時は一万人に及んだとも言う中国からの留学生たち(そこには、少なからぬ革命家たちもまぎれている)がいた。周樹人(のちの魯迅)も、その一人である。また、朝鮮からの留学生には、のちに朝鮮近代文学の樹立者と称される李光洙もいた。彼らは、いずれも、漱石の作品を熱心に読みふける若者だった。
中国、台湾、朝鮮、日本、ヴェトナム(越南)といった極東アジア諸国は、それぞれに異なる話しことばを用いながらも、漢文という書きことばを共有する「漢字文化圏」を形成した。つまり、会話はじかに通じなくとも、筆談で意思疎通できる利便があり、このことが近隣諸国から日本への留学を容易にした。そして、東京は、近代化への動きで一歩先んずることで、漢字文化圏における「ハブ」的な機能を担う都市となり、諸国民が行き交う交差点のおもむきを帯びていく。
この都市で、森鷗外は、ヨーロッパ留学で身につけたドイツ語を駆使して、実に多様な海外文芸を(主としてドイツ語訳のテキスト→日本語訳という重訳で)旺盛に翻訳しつづけた。一方、中国に帰国した魯迅は、留学で身につけた日本語を仲立ちに、世界各地の諸作品を(主として日本語訳のテキスト→中国語訳という重訳で)中国の民衆に向けて紹介しつづける。これらは、白話(口語体の書きことば)による創作の推進という「新文化運動」の実践であるとともに、世界の動向を広く知らせる啓蒙活動でもあり、さらには、口語の語彙自体の創造と蓄積のためでもあった。
ただし、極東アジアにおける「漢字文化」の伝統は、女性を排除する強固な「男性文化」の上に成っていた。これに対して、日本の女たちは「かな文字」による文芸を独自に発展させる。そこでは、平安時代の『枕草子』のような和文体にせよ、明治期に樋口一葉が『たけくらべ』や『にごりえ』で採用した雅俗折衷体にせよ、文語の定型に縛られない「口語」性をはるかに強くとどめている。逆に言うなら、漱石の『三四郎』『それから』『門』などに登場する女たちの自由闊達な口調は、口語にもとづく近代文学の文体が獲得されたことにより、初めてそこに取り込めるようになったものなのである。
この時代、日本は、日清戦争での勝利で台湾の割譲(一八九五年)を受けて以来、遼東半島および南樺太(一九〇五年)、朝鮮(一九一〇年)、ミクロネシア(南洋群島)および中国・膠州湾の青島(一九一四年)などへと、植民地統治の版図を拡げていく。さらに、これらの地域では、初等教育などでの「日本語」教育を推し進めた。
こうした「外地」(植民地や支配地域)でも、「日本語」による文学作品は書かれた。新参の日本人作家が書く作品もあれば、現地人の書き手が強いられた「日本語」によって創作した作品もあった。
現地人の作家たちにとって、母語ではない「日本語」による創作には、はなはだしい困難が伴った。だが、こうした状況への抗いや葛藤も含め、書きうるだけのものを描こうとする努力が、そこでも払われた。日本語を用いるのは、日本人だけではない。これら非日本人を含む使い手の視野から、明治期以来一五〇年にわたる日本語による「近代文学」の通史をとらえたい。「日本語」による創作が経験したもっとも深い領域が、そこに広がっているのではないかと思われる。


【発表要旨】

夏目漱石の満洲表象と石光真清が語った露清戦争――交錯する帝国主義時代の「民」――

斉金英

夏目漱石の作品には満洲がしばしば登場する。『趣味の遺伝』における「天下の逸民」の「詩想」はその一例である。そこでは、日露戦争(1904-1905)の戦場であった満洲における殺戮の様子が映し出されている。また彼は戦勝凱旋式に盛り上がる「帝国臣民」に疎外感を覚えている。『草枕』では、画工が心の中で、志願兵の久一や流民の「野武士」を満洲の戦場に連れていく汽車を、あしき「二十世紀の文明」の典型として批判する。『門』の安井や『彼岸過迄』の森本も、日露戦争後に日本での生活が成り立たなくなり満洲に向かった流民だった。テクストからは、彼らが「のたれ死をする」というネガティブなイメージしか読み取れない。満洲は漱石の作品の登場人物たちに「死」を想像させている。概して漱石の満洲表象は決して心地よいものではない。
満洲は日露戦争の戦場であっただけではない。日清戦争(1894-1895)と露清戦争(1900)の戦場でもあった。清朝末期の満洲では、日清露三カ国を中心に複雑な力関係が構成されていた。そうした状況のなかで1899年に諜報活動のために露清国境を訪れた石光真清は、露清戦争の際にロシア在留中国人がロシア人によって惨殺される光景を〈目撃〉し、ロシアに抵抗する馬賊にも歩み寄っていた。露清戦争を記録した石光の手記『曠野の花――新編・石光真清の手記(二)義和団事件』では、国家主義を掲げる石光のような「志士」や満洲に流されてきた日本人の「女郎」と、「侠」的精神を誇る満洲馬賊との間で生まれた国家や民族のボーダーを越えて通じ合う「真心」が窺える。
清末と明治後期の東アジアにおける「逸民」、「志士」、「馬賊」がそれぞれ如何に帝国主義の時代に向き合ったのかを検討しつつ、漱石の一連の作品における満洲表象と石光の露清戦争時の馬賊表象から垣間見ることができる、「国家」、「国民」の枠組みにより切断されながらも、そこから逸脱してつながりあう諸「民」の様相を明らかにしたい。


島村抱月と台湾:芸術座の台湾巡演

王憶雲

島村抱月は明治末期に新文学のための理論を築きあげようとした文学者である。彼はまた演劇運動の革新において実行に踏み切ったことでも知られている。松井須磨子との恋愛問題で恩師の坪内逍遥を離れて「芸術座」を立ち上げたことは、当時の文壇・劇壇を揺るがす大きな〈事件〉である。抱月が率いる芸術座は日本各地だけでなく、1915年には台湾・朝鮮・満州・ウラジオストクまで、日本の内地外地をくまなく巡演した。
本発表は芸術座の台湾巡業に焦点を当てて考察を進める。抱月・須磨子ら一行の行動は、当時台湾の最も大きな新聞『台湾日日新報』に詳しく取り上げられている。そして上演の傍ら、抱月は台北で「新芸術に就て」という題で講演もおこなった。抱月は何を思い植民地台北で講演を行ったのか。そして在台の人々は抱月らに何を求めていたのか。このような観点から、演劇史に関する日台双方の先行研究を踏まえて、当時の台湾の文学雑誌『紅塵』の記事、『台湾日日新報』における報道、そして、帰国後の抱月が『早稲田文学』に寄せた外地巡業に関する所感を取り上げ、分析を試みる。
1915年の当時、台湾は従属者であった。抱月の新劇、そして新文学は支配者の日本がもたらしたものである。抱月の一連の活動は、本当の意味での「国境を超えた「知」の交流」となり得たのかは慎重に判断する必要がある。とはいえ本発表は台湾演劇史・日本演劇史の隙間を埋める小片として、また、台湾諸所に所蔵されている資料収集の重要性を再提起するものとしての意義は認められよう。


「関東大震災」という「戦争」――横光利一と天皇制国家

位田将司

横光利一は1923年9月1日に発生した「関東大震災」(以下、「震災」)が自らの「文学」に与えた影響の大きさを、1940年代のテクストに至るまで記し続ける。そこでも注目すべきは東京帝国大学での講演「転換期の文学」(1939年)において、横光が「震災」を「戦争」に比していることだろう。所謂〈第一次世界大戦〉と、すでに始まっていた〈日中戦争〉とを念頭に置きながら、横光は日本の場合、「震災」が「戦争」に相当する出来事であり、そこには「青年」の「意識」を〈変容〉させる契機が存在していると述べるのだ。「近代科学」を総動員することで、人間の「意識」や「感覚」を「新感覚」へと〈変容〉させる「戦争」は、横光にとって「震災」の衝撃と結びつくものだったのである。
しかし、「震災」は実際の意味においても「戒厳令」を伴う「戦争」だったのだ。「戒厳令」は罹災地を〈戦地〉へと〈変容〉させ、治安維持をおこなう。その治安維持の対象は、主に大日本帝国統治下の「朝鮮人」であり、「中国人」、「社会主義者」、「無政府主義者」という、天皇制国家を揺るがしかねないと見做された存在であった。つまり「震災」としての「戦争」は、天皇制国家を〈変容〉させかねない存在を、治安維持のために殲滅する「戦争」でもあったのである。
「震災」による「意識」と「感覚」の〈変容〉を「戦争」と並べて言祝ぐ横光は、果たして天皇制国家を揺るがすような〈変容〉をそのテクストにおいて認識することができたのだろうか。また、天皇制国家の〈国民〉の「意識」や「感覚」を、別のものへと〈変容〉しかねない治安維持の対象であった存在や出来事を、そのテクストにおいて描き得たのであろうか。横光利一における「震災」という「戦争」と、天皇制国家における「戦争」としての「震災」を比較しながら、「震災」をめぐる同時代の諸テクストと、横光の小説・評論を含めたテクストを批判的に読み解いてみたい。