春季大会個人発表要旨
〈温泉文学〉の観点から捉えた岸田國士『浅間山』──ツーリズムとシンボリズムの両義性
ビアンコ・アンドレア
本研究は、日本近代文学における温泉表象に着目し、〈温泉文学〉という観点から文学を再考する試みである。明治維新以降、交通網の発達により、保養温泉地は湯治場から遊覧観光地へと変化し、文学における温泉もノスタルジアと近代性が交錯する象徴的な場として描かれるようになった。本研究の目的は、このようなシンボリズムに焦点を当てることにより、日本近代文学を再考することである。
本発表では、岸田國士の戯曲『浅間山』を〈温泉文学〉の観点から再評価する。本作では、主人公が浅間山の麓で温泉を掘り当て、観光地としての開発を目指しているので、温泉が作品の構造にしっかり組み込まれている。しかし、多くの〈温泉文学〉と異なり、『浅間山』の温泉は旅行者の視点ではなく、開発者の視点から描かれており、〈温泉文学〉の中でも特別な作品だといえる。近代日本における温泉地開発の実態を反映しており、夏目漱石や川端康成の作品に見られるような性的魅力のある女性が出場する場面ではなく、ツーリズムと経済開発に密接に結びついている。一方、軽井沢や草津といった他の温泉地への言及により、〈温泉文学〉に典型的なノスタルジックな要素も示唆されている。この結果、『浅間山』の温泉はツーリズムとシンボリズムという両義的な意味を持ち、〈温泉文学〉の中でも特別な位置を占める作品だといえる。
さらに、本発表では、どのようにツーリズムとシンボリズムが絡み合っているかを明らかにしながら、西洋演劇からの影響についても考察する。生涯にわたり、岸田は西洋演劇から取り入られたモティーフとそれらに慣れていない日本人観客にも理解できるようなモティーフを折衷しながら、日本の演劇改革に努めていた。本発表では、このようなトランスナショナルなアプローチにも着目することにより、日本近代演劇における『浅間山』の意義を〈温泉文学〉のみならず国際的な観点からも再評価する。
牧野信一「酒盗人」論──哲学者とソフィストの相違をめぐって──
青木 怜依奈
本発表では、牧野信一の幻想的小説「酒盗人」(『文芸春秋』昭七・二)を取り上げ、本来異質であるはずの物事を結び合わせていく語りの特質を、〈私〉が自認するソフィストとの関係性から考察する。牧野の幻想的小説が従来関連付けられてきた古代ギリシャ哲学の系譜ではなく、哲学者から批判されていたソフィストの性格が「酒盗人」の幻想的表現を方向付けていることを明らかにし、牧野作品とギリシャとの関係性を捉え直すことを試みたい。
昭和初頭に発表された幻想的小説群では、牧野の郷里・小田原における生活に、神話や物語由来の空想的イメージが重ね合わされている。西洋の文物を理想的なものとして位置付けるその表現構造は、プラトンやストア派などの古代ギリシャ哲学、特にイデアという概念を軸に考察が進められてきた。しかし、小説中の表現を子細に検討すると、哲学の担い手たりえない者の詭弁や虚偽にも焦点が当てられていることが分かる。
「酒盗人」においても虚偽や詭弁が重要な意味を持つことは、古代ギリシャ哲学の講義をして暮らす〈私〉が自己をソフィストだと慨嘆していることからも窺える。詭弁家を意味する一般名詞としても使用されたソフィストは、古代ギリシャで活躍した職業的教師だが、プラトンら哲学者からは偽の知者として否定的に扱われた。虚偽や詭弁と結び付けられたソフィスト像は、大正期の木村鷹太郎訳『プラトーン全集』等の翻訳を通じて知られている。
ただし、〈私〉のソフィスト的性格は、古代ギリシャ哲学が実現不可能な理想であることを強調するためだけに採用されているのではない。むしろ、異質な物事を結び合わせていく語りの導入のために、意図的に設定された工夫と捉えることができる。哲学と芸術の境界を見失わせ、酒樽強奪の企てにシャトーブリアンやハウプトマンらの作品の一節を混入させる語りと、〈私〉のソフィスト的性格との有機的な結び付きを明らかにしたい。
※于達氏の「泉鏡花と中国古典文学の交点─その受容と変容を中心に─」は事情により発表を辞退なさいました。
近代短歌と〈事実〉──中河與一の「写生」短歌批判と石原純の相関性に注目して──
野間 颯
本発表は、近代短歌とフィクション論との接続を図る。そのために正岡子規が提唱しアララギが継承していた「写生」と、それに対して中河與一がおこなった批判に注目する。
絵画技術の模写が基にある「写生」は、客観的現実を言葉に切り出すものである。中河與一はこの「写生」を、量子力学以前の科学認識であると批判した。その根底には同時代に新短歌を提唱していた、物理学者・石原純との交流で認識した、量子力学的な発想があったと考えられる。観測体によって被観測体が規定されるという発想は、外界を確かなものとする「写生」とは、馴染まなかった。そのため中河與一の批判は当時、黙殺された。
だがアララギ派の銃後歌人たちは、戦地を実地で観測できなかったために、この「写生」の限界に接する。斎藤茂吉は戦地詠に羨望を向けながらも、銃後における戦争を描くことに注力する。新聞・ニュース映画からの情報を通して戦地を想起する短歌も詠んでいたが、この方法について斎藤茂吉自身はどの銃後歌人も似たような歌に陥っていると、低く評価する。この「写生」短歌の限界が露見したことで、戦地詠は高く評価される。一方で出征歌人・渡邊直己が出征前に詠んだ短歌を、戦地詠の秀歌として扱うといった、倒錯した事象も発生する。両者は「写生」歌人と評価されているが、彼らの詠作は銃後からすれば未確定の被観測体である戦地を、観測体が決定したことに他ならず、中河與一の主張する「被観測体について述べる前に観測者としての心懐を吐露」する短歌と言えよう。
以上のように中河與一によって批判されたアララギによる短歌は、しかし戦時下の銃後の限界を克服する際に収斂的な経路を辿ったことを指摘できる。その中で強固に存在していた〝短歌は〈事実〉を詠むもの〟であるという認識、またそれを転倒させた事象は、〈事実〉とテクストとの関係性に分析の枠組みを与えるフィクション論の新たな地平を開くものである。
英訳に堪えない小林秀雄―柄谷行人らの指摘からみる小林と翻訳の問題―
吉見 瑠威
この発表は、小林秀雄がその仕事をすすめる過程で、文学の普遍性の問題を、いかに、またどこに志向していたかを、批評営為の意味についての小林自らの見解と、代表的な小林批判とをとおして明示する。
柄谷行人は、かつて小林作品の英訳を推しすすめるなかで、その無価値に想い至った。事実、現在国外において小林秀雄は無名であり、それは国内の(かつての)文学者、知識人等にとってのその存在感を顧みるとき奇異ともいえる。柄谷は、実感的表現や国語伝統という枠におさまった告白的批評に終始する小林が、政治社会的な抑圧へ加担しうることを配慮しない姿に、先の無価値をみた。
これと対蹠的なかたちで小林を批判したのが坂部恵である。柄谷とおなじく、日本語による思想表出の歴史から、現在の世界的な課題ないし普遍的な意味を取り出そうとしつつ、坂部はそれを日本の古語や「やまとことば」の可能性を模索する道においてする。そこで坂部は、小林のなかにむしろ、日本語の実感的表現の枠内にて、いかに近代的な批評―自己批判と原理証明を一時にになう言語―を導入するかという課題の挫折をみる。
柄谷の判断が正しいなら、それは、小林の批評が〈国語〉の対象化を中心的な課題としてはらんでいたからである。その普遍性への探求は自国語という制約に行き着くのは、自ら翻訳であることによる。この翻訳から翻訳するに値するのは、内容よりその志向(翻訳であること)の方である。生涯「翻訳文学者」を自認していた小林の翻訳論には、自身の仕事についての、さらには日本文化全体についての彼の理解が含まれる。彼の文体の抽象
性、虚構性は、たんに、他者隠ぺい的に働く小説的〈私〉の破壊と復権の矛盾体なのではなく、まず翻訳体として、自然的〈母国語〉への懐疑と回帰の矛盾体である。柄谷と坂部はこの翻訳体が示唆する時代的課題(多文化間の「交換」ないし「交感」の問題)を異なる仕方で展開したのである。
微細なものの革命──花田清輝と安部公房の「量子力学」
別當 奏
花田清輝「沙漠について」(昭22 ・9)は、先行論が既に指摘しているように、安部公房の文学に大きな影響を与えたテクストである。しかし、花田清輝が「沙漠の運動」について語る際、「物質」のミクロな単位である「量子」としての側面にも触れつつ、その創造的なポテンシャルを語っていたことはほとんど注目されてこなかった。花田清輝は「沙漠の運動」に、日常的に経験される現象世界では捉えられない潜在的な可能性を見出しており、ここには戦前‐戦中において「量子力学」を受容した西田幾多郎や田邊元などの京都学派の言説からの影響があるだろう。
一方で、安部公房は、そのような花田清輝のテーゼを摂取しつつも、それらを「実存」の問題として受け止め、新たな創作方法の確立を試みていた。
そこで本発表では、花田清輝や安部公房といった作家たちのテクストと、「量子力学」を受容した哲学界の動向との関係性を探ることによって、彼らが現代物理学・哲学の学術的知見を取りこみながら、新たなリアリズムの創造を企図していたことを明らかにする。
その上で、このような方法論上の試みが安部公房「洪水」(昭 25・12)といった実作において、どのように展開されたのかを検討する。そこには、安部公房が初期作品においてたびたび描いた「見る」(=「観測する」)ことへの不信という視覚をめぐる問題系が関わってくるだろう。本作は、「労働者」を「古典物理学」が規範とするような客体化・実体化された「対象」としてではなく、「量子力学」が見せるミクロな潜勢力を絶えず含み込むものとして描いている。そのような観点から、本作を読み直すことによって、個体に先立つ微細なものが立ち上がる、特異なヴィジョンとして「大洪水」が描き出されていることについても提示したい。
男のいない女たち──村上春樹『夏帆』論──
林 圭介
村上春樹文学で地の文の一人称に用いられてきたのは主に「僕」だが、三人称への転回を経て書かれた『騎士団長殺し』(二〇一七年)以降、新たな一人称が用いられつつある。「私」である。村上によれば、「私」は「一人称の「僕」よりは、もう少し社会性を持っている」(川上未映子、村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社、二〇一七年、二八四頁)という。しかし、村上文学の女性主人公たちは、この「社会性」を身につけた「私」を使い続けてきた。
押野武志が指摘したように、「七〇年代以降の一人称独白体においても、「僕」と「あたし」をめぐる性役割の呪縛」から自由ではなかった(「少女独白体の新展開―一九七〇年代以降」『昭和文学』八三巻、二〇二一年、八八頁)。「社会性」は「男装文体」よりも「女装文体」に現れる。女性の「私」語りは、社会を語るのだ。本発表が問うのは、村上文学で常にそして既に「私」を用いてきた彼女たちの物語の意味である。そのために、最新の短編『夏帆』(二〇二四年)の「私」と従来の女性主人公がいかに異なり重なり合うのかを考察する。
村上の「女装文体」は『ノルウェイの森』(一九八七年)以後の九〇年代前後に集中している。いずれの短編でも描かれたのは、自立を志した女性たちの挫折と苦悩だった。一方、『夏帆』では絵本作家の主人公がブラインド・デートで出会った年上のハンサムな男性佐原から投げかけられた「侮蔑的な発言」を通じて、逆に新しい絵本を創作する。
絵本は「一人の少女が自分の顔を探しに行く話」で、「とりわけ十代初めの少女たち」に読まれ、担当の女性編集者町田さんから「息の長いロングセラーになる」と評される。「僕」から離れて「私」が「私」たちと関わる姿を描き出しているのだ。女のいない男たちならぬ男のいない女たちの絆から、村上文学における「女装文体」のゆくえを浮かび上がらせたい。
世界文学としての日本語文学──リービ英雄・水村美苗のバイリンガル性を中心に
ザベレジナヤ・オリガ
日本語文学とは、日本語が母語ではない、もしくは多言語的背景から日本語を創作言語として選択し日本語を異化できる作家が創る文学である。現在長い歴史を持つ在日作家はもちろん、中国出身の杨逸、台湾出身者の李琴峰、アメリカ在住の水村美苗、ドイツ在住の多和田葉子など大勢の作家が活動している。その作品は文学賞を受け優れた文学として認めらているが、「日本文学」や「国文学」とは異なったものとされる。その相違はいうまでもなく日本語文学のバイリンガル性あるいは複言語性によるものである。
本発表ではそのバイリンガル性を二つの側面から考察し日本語文学の可能性を探ろうとする。
第一に世界文学の複言語的な性格を重視した以下のような視点から日本語文学を考えてみる。ジェイン・ヒドルストン、歐陽文津(編)の論文集«Multilingual Literature as World Literature»(世界文学としての多言語文学)(2021)では世界文学とは別々とした言語で書かれた国民文学からなりたつのではなく、ダイナミックに展開していく様々な文学の絶えない交流から生まれるものとして以前の研究と比べて新しい角度から定義されている。日本語文学作家では特にリービ英雄と水村美苗が「日本語」と「日本文学」に対して論じてきた作家であり、その論点の多くは対照的である。本発表では自分を国文学の継承者として考える水村と文学の国境を崩そうとするリービの思想を考慮しながらその文学におけるバイリンガル性を以上の世界文学の概念に基づいて分析する。
第二にリービと水村の創作プロセスにおける翻訳作業に焦点を当てる。日本語作家が外部から日本語を観察でき意識的に、あるいは無意識にもう一言語(もしくは複数の言語への翻訳作業を作品に取り入れているのは多くの研究者に指摘されてきた。加えて日本語の元来の特徴としてハイブリッド性がすでに指摘されてきた。本発表では日本語文学における「翻訳作業」を定義しリービ(『日本語を書く部屋』、『日本語の勝利』、『天路』)と水村(『私小説: from left to right』 、『日本語が亡びるとき』の作品をあげながらそのバイリンガル性を評価する。
日本への眼差しに応えて──多和田葉子「球形時間」を中心として
袁 嘉孜
西洋からの眼差しは、東洋としての日本に対するオリエンタリズム的観点と、帝国日本によるアジア侵略をめぐる歴史的認識という二つの方向に大別される。多和田葉子の「球形時間」(『新潮』二〇〇二年三月号)では、男性人物であるソノダヤスオやコンドウを通じて描かれる大日本帝国のイメージと、『日本奥地紀行』を介して提示されるオリエンタルな日本像が、物語全体を通じて並行して描かれている。したがって、この作品は外国からの日本への眼差しを反映し、それに応答しようとする試みと理解できる。
この作品は、高校教師ソノダヤスオを通して、大日本帝国の歴史的遺産としての軍国主義的規則や暗黙の了解が批判的に描く一方、大学生コンドウによる太陽崇拝という古代信仰への執着を媒介として、日の丸のイメージ解体を試みている。また、高校生サヤと英国人女性イザベラとの対話を通じて、近代以前の日本の風景が提示されている点も特徴的である。
作中の「イザベラ」は、「創作合評」(『新潮』二〇〇二年四月号)において、『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan, 1880)の著者イザベラ・バード(Isabella L. Bird)のことであると認識されている。久米依子は『現代女性作家読本⑦ 多和田葉子』(鼎書房、二〇〇六・一〇)において、イザベラとの出会いがサヤに「現代日本を相対化するまなざし」を学ばせたと指摘している。一方、コンドウを通じて日の丸という大日本帝国の象徴が繰り返し提起される部分については、「創作合評」において理解が難しいという指摘も寄せられている。
本発表は、「球形時間」とイザベラ・バードの『日本奥地紀行』との間テクスト性に着目し、作品における西洋への眼差しを再考することを目指す。また、男性人物を通じて展開される日本のイメージを論じながら、海外の日本文学研究の現状を検討し、それに対話することで、日本文学の現在を明らかにすることも意図している。
北原白秋『満洲地圖』論──時代錯誤とオノマトペの行方
川上 優芽
北原白秋は、南満州鉄道の招聘に応じた一九三〇年三月の満蒙旅行を紀行文や短歌、童謡として作品化した。「満洲建国十周年慶祝記念として」(「あとがき」)一九四二年に刊行された『少国民詩集 満洲地圖』はその最大の成果である。三木卓が本詩集を「国家的要請を満たす」作品群と「自分を満たす」作品群の中間にあるものとして位置づけたように、『満洲地圖』は晩年の白秋の両側面が混淆しつつ作品化された重要な詩集である。旅行から作品化に至る一二年の懸隔にも拘わらず白秋の詩作を可能にしたのは、一九三一年に発表された紀行文の自己参照であった。同時に本詩集では随所で日露戦争の時代が想起される。こうした時代錯誤が「現下の満洲」(あとがき)を隠蔽しながら境界侵犯の欲望をかきたてる役割を担ったことを指摘した上で、少国民詩作者であった巽聖歌らと比較し、『満洲地圖』を同時代に位置づける。また『満洲地圖』は収録詩を満鉄の路線順に配置している。こうした特徴から、先行論は本詩集を近代ツーリズムの隆興を背景とした「詩による満蒙旅行」として位置づけている。しかし本詩集において地名はまず風景ではなく地図上の文字として現れており、詩の書記的な側面を検討する必要がある。旅行体を取った『満洲地圖』は、大和田建樹『地理教育 鉄道唱歌』(一九〇〇)と同じ水平な視覚を有する教育効果を持った。それは高村光太郎「地理の書」や当時の国定教科書の垂直な視覚とは異なっていた。こうした視覚は「ここ」としての満洲を可能にしたが、「赤い夕日」という軍歌「戦友」以来のクリシェが反復される本詩集において、満洲は同時に郷愁の対象でもあった。「ここ」であると同時に「とほい」という二重性により行先を喪失した詩の言葉は、オノマトペへと容易く転化する。白秋の重要な詩語であったオノマトペが、かつて「牢獄」と批判した小学唱歌や「建国体操」からの逃亡であると同時に、詩の荒廃をも招いたことを指摘したい。
毅堂をはじめとする儒者や文人に対する荷風の考え方――『下谷叢話』を中心に
呂 娜
荷風は森鷗外の歴史小説に触発され、「下谷のはなし」を執筆し始めた。その後、江戸儒者の詩文に集中して耽読しながら毅堂と枕山の事跡を考証し、自身も「わたくし」として出ている、わりに客観的で史伝風の「下谷叢話」に改作した。前田愛(1970)や福井辰彦(2004)は、「下谷叢話」や「下谷のはなし」によって、外祖父毅堂に対する荷風の態度は「官僚的俗物性の厭わしさ」や「嫌味」だと指摘している。その原因として、毅堂の逸話が二つ挙げられている。まず、中根香亭の『天王寺大懺悔』では、「昔の友人が尋ねて来てもしびれの切れる(ママ)ほど待たせて置きやがて襖を左右へ開かせて静にねり出しなどしました」と、毅堂が傲慢に描かれた。次に、毅堂が白井権八ばりの美男子だったという逸事である。
しかし、「下谷叢話」や「下谷のはなし」から少し目を逸らして、荷風の実生活や儒者の思想空間になっている中国文学の風流を視野に入れて考えれば、疑問が出てくる。荷風は、新聞記者の訪問を拒絶するために居留守さえ使って会わなかった。「俗客雑賓」を避けるために、「倨傲褊狭の譏りは予の甘受する所なり」と日記に書いている。このような荷風は、毅堂が「倨傲」だと決める中根香亭の見解に賛同するとは考えにくい。その上、中国では、美男で名高い風流名士というと、楚の宋玉や西晋の王衍がよく知られる。つまり、中国文学の世界では、異性を引く魅力として男性の美貌が有価値のものと認められている。もちろん、白井権八はさほど好ましい人物ではないが、毅堂が白井権八ばりの美男子だったという逸事が「下谷叢話」に記されていることを、荷風の毅堂への「嫌味」と考えるのは疑いがある。
さらに、「下谷叢話」では、毅堂をはじめとする幕末の漢詩人たちの群像が描かれ、江戸時代の支那文学の「経学」(思想性)と「詩文」(芸術性)という二つの側面が論じられた。そこから儒者や文人に対する荷風の考え方や思想の軌跡が窺える。