春季大会特集 〈非/人間〉の臨界―交錯する表現の潜勢力

【特集の趣旨】

「ポストヒューマン」という概念が、20世紀テクノロジーによる人間機能の拡張から、文化人類学や新しいエコロジーなどの多様な領域に関わるものとして、厳密な定義を持たないまま広く流通するようになって久しい。そこでは、旧来の人文諸学における人間中心主義を相対化し、また「人間」をテクノロジーや環境を含めた「非人間」との関わりにおいて捉え直すことが試みられていると言えるだろう。

一方で、ある存在を非人間と見なすことを批判することには、別の境界を産出するジレンマが付きまとう。例えば、昨今の重要な論点である動物に対する着目には、非人間化される動物(表象)を問題化する功績の反面、植物や菌類、無機物などを議論から排除する側面があるのではないだろうか。

 また、注意しなければならないのは、非/人間の境界を取り払おうという態度が、人間の名の下にあらゆるものを包摂する、全体主義的な差異の排除であってはならないということである。

ここで文学に目をむけてみれば、ポストヒューマンの概念成立以前から、実に様々な植物や無機物と人間(人体)の交錯が描かれていることに気付く。例えば、植物は、言葉を発しない性質が言語システムの支配からの自由を、動かないゆえに発達させた根の驚異の機能が生命力を、多様な雌雄性が生殖からの自由を、人間に蝕知させる―、人間は植物を羨望し、植物を模倣し、植物に変身し、やがて植物にとって換わられる。また、人間は健康・長寿への欲望から多種多様な菌類を利活用し体内に取り込む一方で、不可視の細菌・ウイルスに侵食され死に至ることもある。他方、生を脅かすものへの抵抗はテクノロジーへの探究心へと形を変え、人間と機械の境界はいよいよ曖昧になり、人間は機械との接続によって息を吹き返し、その制御によって延命する。さらに、都市を「自己増殖する自然」(日野啓三『都市という新しい自然』)と捉えると、そこには廃墟のロマンティシズムを包摂し、超克しながら、「人間」と無機的なものの関係性を再構築するさまが看取され、人間の手で構築された都市=自然が、「人間」と「非人間」の臨界を脅かす。

 このように文学において人間と植物/無機物の関係は、相互に嵌入するような複雑な形態や身体性を持っている。これは、非/人間の境界の問い直し方そのものを再考させるような、言語による思考実験の過程といえるのではないだろうか。

 文学は常に、人間の身体が固定的なものではなく、植物/無機物によって崩され、保たれ、共存し、殺される様子を描き出してきた。この企画では、西欧キリスト教文化圏における人文科学を通過した上での近現代日本の文学が描き出す植物や無機物の表現と、それらが持ちうる潜勢力を、ポストヒューマン(という用語の批判も含めて)の観点から検討する。

運営委員会


【研究発表要旨】

尾崎翠「小野町子もの」における〈変態〉――植物との交錯を通して

山根直子

尾崎翠作品は「植物園」と言って良いほど豊かな植物表現で溢れている。人間の隣にはほとんど必ず植物がいる。外を歩けば「木犀」や「桐の花」が、室内では「蘚の花」がむせ返るほどの匂いを放ち、人間の心身に溶け込んでくる。
翠の植物表現には、二つの意味での〈変態〉――アブノーマリティとメタモルフォーゼが重要なモチーフとして存在している。人間は植物を見つめ、その果実を食べ、匂いを吸い込むことで、精神を植物に近づける。植物は人間の精神を「非人間」=アブノーマリティへとメタモルフォーゼさせる力を有す。一九二九年から一九三三年にかけて書かれた登場人物名が重複する作品群「アツプルパイの午後」「第七官界彷徨」「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」「書簡集の一部分」――以降、代表作「第七官界彷徨」の主人公の名前をとって「小野町子もの」と呼ぶ――では、それが顕著に見られる。
「小野町子もの」の起点である「アツプルパイの午後」では、「兄」の「妹」に対する罵倒から、異性に恋をして結婚し生殖する主体が「人間」のノーマルな「型」として示される。「小野町子もの」では一貫してこうしたノーマルな人間の「型」から逃れ、それとは別の生き方をする主体になるための回路が模索される。「第七官界彷徨」に登場する〈両性具有の恋〉をする「蘚」など、人間とは異なる生態を持つ植物へのメタモルフォーゼは、その回路を開く方法となる。
ロージ・ブライドッテイ『ポストヒューマン』(門林岳史ほか訳、フィルムアート社、二〇一九年二月)は、従来のヒューマニズムにおける「人間」の概念は「人間」と「非人間」を識別する「排除と差別」の道具であったとし、「非人間」との関係性から新たな人間の概念「ポストヒューマン的主体」を形成する必要性を訴える。植物との交錯を通して既存の「人間」の「型」とは異なる新たな主体を形成しようとした翠の試みは、「ポストヒューマン」の先駆的試みと位置付けることもできるだろう。
そこで本発表では、「小野町子もの」において、植物との交錯がどのように人間を変態(メタモルフォーゼ)させていくのかを分析し、それらを通してどのような変態的(アブノーマル)な主体が形成されたのかを明らかにする。その上で、翠が提示した「ポストヒューマン的主体」とその形成方法の今日的可能性を考えてみたい。


〈人間〉の後に到来するものは何か――埴谷雄高の滅亡愛――

藤井貴志

半世紀に渉って書き継がれながら未完に終わった『死霊』を中心として、埴谷雄高が残した厖大なテクストには人間存在自体への徹底した憎悪の思想が漲っている。その憎悪を醸成したのは、食物連鎖における他種からの一方的な搾取をはじめとして人類が積み重ねてきた夥しい「過誤」であり、あまりに人間中心主義的という他ないその「過誤の歴史」はもはや「全的滅亡」――このフレーズは武田泰淳「滅亡について」経由であろう――による以外には停止できないのだという極端なニヒリズムへと接続していく。〈滅亡〉をめぐる埴谷の言説は実に多様だが、たとえば『死霊』八章に挿入された三輪高志の手になるリーフレットには「ひとりの子供だにまつたく存しなくなつた人類死滅に際しておこなわれる革命のみが、本来の純粋革命となる」と記され、その「純粋革命」の成就と共に「有の嘗て見知らぬ新しい未知の虚在」の「創造」を目論む極めて謎めいたヴィジョンが展開されていた。「人類死滅」の後に果たして何が到来するのか?――そもそも人類滅亡後の光景は論理的あるいは形式的に認識不可能な外部にある筈だろう。だとすれば、なぜこれほどまでに埴谷は〈滅亡〉のモティーフに反復強迫的に惹かれてしまうのか。そこには人間のいなくなった世界への謂わば〈滅亡愛〉とでも呼ぶべき倒錯的な志向性が浮き彫りとなるのだが、本論では人新世的諸課題が避けて通ることのできない〈滅亡〉の主題系を念頭に置きつつ、埴谷における〈滅亡愛〉の構造を横断的に分析したい。『死霊』はむろんのこと、人類滅亡後の廃墟のただ中で人間存在とそれが産出した文学的営為の意味を問い直す埴谷のエッセイ(「人類の死滅について」「廃墟と機械人形」「未来の廃墟」等)、遺伝子工学などのテクノロジーの進化を踏まえつつ既存の人間存在を超克する〈ポストヒューマン〉の可能性に言及した埴谷の対談を俎上に載せる予定である。


「人新世文学」の風景――日野啓三『夢の島』を題材に

芳賀浩一

「人新世文学」とは二〇〇〇年にP・クルッツェンが人間による地球環境改変の時代を「人新世」(The Anthropocene)と呼ぶことを提唱し人文学の諸分野で議論となったことを受け、二〇一〇年代からエコクリティシズムの分野において徐々に用いられるようになった用語である。この「人新世文学」が提起する課題を通して日野啓三(一九二九―二〇〇二)の小説『夢の島』(一九八五年)に新たな側面を付与することが出来るのではないだろうか。
『夢の島』において、主人公の境昭三は東京都心から橋を渡って晴海さらには中央防波堤外側埋立地へと逍遥する。それは境の内面における現実と妄想の境界越境と重なり、彼は最終的に中間領域である「夢」の場である台場の島で不慮の死を遂げる。本作は、高層ビルが林立する東京とその対岸の荒涼たる埋立地のコントラストを包括的な枠組みとし、大量生産される製品とそのゴミ、人間とノンヒューマン、意識と無意識といったサブ・コントラストを通して様々な角度から可視・不可視の境界線とその攪乱を描く。そして、それらの対立する要素が混淆する「夢の島」は、人工の物質が自然界の一部となった「新しい自然」と呼ばれる環境を映し出す。
作中で日野は、高層ビルの前景と焼跡の後景がその境を喪失し灰色の固まりとなって現れる場面をクライマックスとして描く。従来の時系列的形式の枠組みが一時的に喪失し存在論的な気配が立ち昇るのである。日野による物質の存在論的表現は、T・モートンの「ハイパーオブジェクト」等のエコクリティシズムの概念を想起させ、また彼の「新しい自然」は人新世の風景を先取りするものであったと評価することも可能であろう。
その一方で、「人新世文学」は存在論的結末を持つ『夢の島』を認識論的に読解することも要求すると筆者は考える。そこで最後に「人新世文学」が可視化する課題のひとつであるエネルギーの視点から『夢の島』を読むことで発表を終えたい。


人間と/人間の廃墟化――一九六〇年代から一九八〇年代の日本を中心に

小澤京子

一九六〇年代から一九八〇年代、つまり高度経済成長期からバブル期に掛けて、人間を取り巻く都市もまた、急速にその姿を変えていった。ここには、テクノロジーの発展による都市環境そのものの変貌と、産業構造の変化がもたらした社会変容の反映とがある。一見「進歩」の時代と思えるこの時期には、しかし「廃墟/遺棄された場所」や「廃物」のイメージが、文学、芸術、ポピュラーカルチャーまで様々な表現のなかに特徴的に現れ出てくる。それは第二次大戦終結直後の現実だった焼け野原ではもはやなく、観念的に回帰してくるカタストロフの光景、もしくは急速に発展してゆく都市空間のなかに見出された間隙のような場である。磯崎新が一九六八年に提示した「廃墟」のヴィジョン、一九七〇年代に不法投棄のゴミが集まるような「世間にとって未登録の空間」に着目した安部公房、そして一九八〇年代に起きた廃墟やジャンク表象の一大ブーム(大友克洋、宮本隆司、日野啓三、三上晴子、塚本晋也ら)…… そこでは次第に、都市や建築物、機械といった人工物の廃墟化だけでなく、人間存在そのものの廃墟化・廃物化、さらには人体と廃棄物の融合(または交錯や相互的な境界侵犯)といったイメージが頻繁に登場するようになる。
テクノロジーの所産である人工物(都市、機械…)と人体(脳や神経系も含む)との融合は、一方ではサイボーグ概念や人間の諸能力のエンハンスメントという発想と結びつく。しかし同時に、テクノロジー(あるいはその失敗や廃棄物)という他者と融合することで人体が半ば壊れ、それゆえに従来の「人間」の範疇を超え出た何者かへと変容を遂げるというヴィジョンの系譜も、確かに存在している。本発表では、この後者の側面に焦点を当て、従来の「人間」や「人間の理性」といったものへの了解可能性を喰い破る存在のあり方とその潜勢力について、いくつかの指標的・特徴的な作品に基づきつつ分析する。