春季大会パネル発表要旨

核表象の〈翻訳〉と日本ポップカルチャー
(発表者)柿原 和宏、花岡敬太郎、大橋 崇行
(ディスカッサント)小松史生子

 広島・長崎に原爆が投下された一九四五年から数えて、およそ八十年という歳月の経過を迎えようとしている二〇二三年、アメリカのユニバーサル・ピクチャーズは映画『オッペンハイマー』を製作した。J・シャーウィンの小説『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(2005)を原作とするこの映画の上映について、日本では賛否両論の議論がネット上で展開され(本映画の日本公開は二〇二四年)、核表象とポップカルチャーをめぐる〈政治〉と〈翻訳〉の問題が世代を新しくして考察されようとしている状況が浮き彫りになった。本パネルは三本の発表と討論で、こうした現状況の把握と分析を行う。
 柿原和宏は日米のゴジラ作品を異言語間における核表象の観点から比較する。東宝映画『ゴジラ』(1954)が、核の恐怖や核兵器廃絶の象徴としてゴジラを創造したのに対し、東宝からゴジラ使用権を購入したハリウッド版『GODZILLA』(2014)は放射線を食料として力を増強する怪獣として描いた。両作品の比較検証から、ゴジラを翻訳する際に生じた核表象の差異について考察する。花岡敬太郎は『ウルトラマン』(1966‐1967)とその後継シリーズを扱い、シリーズ後半では童話や童謡の世界観の体現となった怪獣と核表象に着目し、テレビを舞台に世代を跨いで核の物語を紡ぐことの意味を作り手たちがどのように考えていたのかを考察する。大橋崇行はコミックス版の宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1982-1994)を中心に取り上げる。「巨神兵」を核兵器の、「火の七日間」を核戦争のメタファーであるとする批評言説について再検証し、一九八〇年代以降におけるメディアの中のヒーロー/ヒロイン像の変遷と核表象との関わりについて考察する。
 ディスカッサントの小松史生子はこれら三本の発表内容を踏まえ、従来の研究で抜け落ちていた〈翻訳〉という観点で、日本ポップカルチャーの中に見出せる核表象を政治/文化の越境現象として抽出し、再び核の恐怖の気配が匂う現在の世界情勢下においてポップカルチャー・コンテンツの果たす機能を検討する。

〈日本語〉で共有される文学と翻訳の同時代的〈読み〉
金 昇渊、魏 韻典、長嶺 裕貴

 なぜこうも世界各国の国名を冠した文学と研究は、その一部ではなく、対をなす形でしか「世界文学」を見据えられないのか。文学全集や「世界文学」なるものへの、捉えなおしが再三行われてなお、結局のところ「海外における」や「翻訳」という〈本場〉史観の国際(性)を謳うにとどまってしまうのはなぜか。
 そこで、本パネルでは、こうした「地理的語圏 X-phone zone」の限界を代替する新たな定義や概念規定への希求ではなく、「語圏を生きる個体 X-phone person」に焦点を当てた思考を試みる。そのための方法として、具体的な実存への探究と言語の狭間で、これらが無縁では在り得ない〈日本語〉で書かれ、読まれるところから、この地続きの現在地を問いたい。
 以下、その狭間を〈日本語〉で共有し、〈読む〉ことでしか構造を更新できないでいる各論と身
体をもって、この問題系の相貌を討究する。
 金昇渊は、本パネルの趣旨説明を行う。併せて、1990年代、カルチュラル・スタディーズからポスト・コロニアル批評、インターネットの普及とグローバリゼーションへの議論の中で当初、リービ英雄といった「越境作家」の台頭と対をなす形で「発見」された多和田葉子とそのテクストを拠り所に、この問題への糸口としたい。国民国家という枠組みのもたらす神話は、自らの実存への自覚の有無を問わず、「国民」が必然的に多少とも「国語」と「母語」を、ここでは「日本語」を、「一つの」ものとして身体化し、時にそれが「単一」のものとして他者にまで押し付けられる、根深い〈日常‐性〉をもあらわす。文学も、また、国文学、日本文学、日本語文学、日本
語圏文学、ひいては世界文学にいたるまで、未だこの神話から無縁では在り得ない問題を抱えている。「日本文学」とは何か。何語で書かれるか。今ここの読者や、現代の文学、文化を理解するための磁場が、絶えず変容しつつも、「近代」たる明治23(1890)年に渡日し、明治29(1896)年に小泉八雲となった、ラフカディオ・ハーンへの評価といかに地続きであるかを思考する。その際、同時代文学としての韓国現代文学と、日本語訳の功罪についても触れたい。
 長嶺裕貴は、梨木香歩『沼地のある森を抜けて』(2002)をエコクリティシズムの視点から分析し、人間の根本的な多元性を前景化する小説として議論する。梨木文学に頻出する秘められたトラウマを経て成長するというテーマの物語は1990年代から2000年代にかけ変容し続け、児童文学というデビュー当時の評価に収まらない発展をみせてきた。本作では叔母の死後、不可思議な力を持つぬか床が主人公に受け継がれ、人間と非人間の多元的な混じり合いが描かれる。代々女性が世話をしてきたぬか床という設定は一見すればジェンダーの問題として読み込むこともできるが、ここでは人間と多種多様な微生物との不可分な関係性の中に浮かび上がる複合的な主体
について議論する。この〈読み〉は人間中心的な単位、時間における登場人物の閉じられた内面の解釈の枠組みを越え、人間と非人間の相互作用、その作用主体性のアンバランス、単純な調和という解釈に収まらない共生の様相を明らかにする。このように、有機的な観点から本作に登場する人間主体を分析することで、数多の非人間に生かされ同時にその他者を生かしている多元的な「私」の文学的意義について考察したい。
 魏韻典は、戒厳令解除(1987年)以降の台湾文学に着目し、「日本文学」というシニフィアンが台湾文学の語りとどのように交渉されるのかを考察する。その際、賴香吟『其後 それから』(2012)と楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』(2020)を取りあげ、日本文学テクストとの対話や物語の再構築を通じて、「日本文学」というシニフィアンを語りの一部として有機的に組み込み、主体と記憶をめぐる多層的な再解釈を試みた〈場〉を読み解く。『其後 それから』は、夏目漱石『それから』から表題を借用し、親友の自死による喪失感とトラウマと共に生きる日常を描いている。一方、『台湾漫遊鉄道のふたり』は、語り手と架空の日本人作家との複雑な関係性を軸に、佐藤春夫「女誡扇綺譚」の物語構造を巧みに取り込んでいる。これらの呼応は、台湾で連綿と続く政治的抑圧や家父長制の歴史によって排除され、傷つけられた身体をこそ描出する。ここでは、さらに情動理論、フェミニズム、ポストコロニアリズムを基盤に、これらのテクストが「日本文学」というシニフィアンとどのように反響するのかを分析する。そのプロセスが、主体の脆弱性や喪失経験にいかに応答し、家父長制や異性愛中心主義による暴力や排除にどのように抵抗するのかを検討する。また、この接触と交渉の動態を、特定の身体を不可視化する戦後台湾の「集合的記憶」の語りを脱構築する試みとして位置づける。これらの語りが戦後台湾の歴史的傷とどのように対話し、いかなる共同体の未来を素描するのかを解明したい。
 以上、一見三様の、各論と身体を響き合わせることで見据えられる文学と翻訳の同時代的〈読み〉の相貌は、その三つの具体から眼差した世界と文学の今日的なあり様を開示し得る。「世界文学」をめぐる非常に広義の概念や言説を、「日本文学」に収斂しない〈日本語〉で共有される三つの側面から実証し、その結び目を探る。